Canada Youshinkan Kendo Dojo

求心力

剣道指導を長年していて、育つ生徒と育たない生徒が出てくる。其の一番大きな差は、受け入れる心があるかないかだ。
確かに、世の中には器用な人も居れば不器用な人も居る。だが、大先生方のお話を聞くと、「自分は不器用だから」と言うお話をされることが多い。

「不器用だから、人の倍稽古をして、掴んで来た」と言われるのである。今まで数多くの生徒を育てては消えていったが、其の中で器用な生徒ほど早く上手くなるが、途中から伸びなくなる。

又、少々不器用だがあきらめずにコツコツ努力をしてきた生徒は、確りした地力が付き、良い剣道家に育つ場合が多い。

器用な生徒が、途中で伸びなくなるのは、早く上手くなるので、最終的には探究心、求心力に欠けるからに他ならない。少々不器用な生徒は自分が器用な生徒から比べれば、遅れることが分かるからか努力をする。それが良い意味での探究心、求心力に繋がるのだと思う。

だが、中には、とんでもない、不器用な人もいる。是は肉体的なものではなく、精神的に不器用だと言うことだ。つまり、探究心も、求心力も自分の判断の殻の中に閉じ込めて、そこから抜け出せない人だ。なぜならこの人でも箸でご飯が食べられるであろうし、歩く事とも走る事もできる。だから、運動神経の問題ではないのだ。

羽賀の、親父が物凄い言葉を口にしたことがある。是は言い過ぎではと思ったが、まあ、弟子と師匠の仲だけの話だから許されると思って口にされたに違いない。だが、確かにそれは真実だと熊も今更ながら思うのである。

「世に不器用と言う人は、頭の使い方が悪いだけだ」と言う非常に厳しいものである。

つまり、頭の使い方が悪いと言うことは、理解しようとしないだけ、素直な心で受け入れ様としなっからだと言うわけだ。
それと、頑なな自己があり、自分の勘違いを認めようとしないで、間違った方向で無駄、無理な努力をしている人だ。

確かに、今まで、数人だが、こんな人も居た。

何でも、学ぶと言うことは、心を乾いたスポンジの如く、一度、水と言う教えや、知恵に触れた時、あふれ滴るまで吸収できる、吸収力を持つことが大事なのだと思う。

だから昔から言われる、「一芸に秀でるものは、万芸に秀でる」と言う格言の如く、探究心が旺盛で求心力のある人が、万芸に秀でる人なのだと思うし、なんにでも求心力が働くか働かないか其の差が大きく左右するだけのことだと思う。

禅の言葉にも「大疑」と言う言葉がある。本当に是で良いのか、是でもか、是でもか、と最後の最後まで、探求せよとの意味だと聞いた。

そこまでの探究心、求心力がその人の剣道を延ばすか伸ばさないかの境界線になるだけのことだ。