Canada Youshinkan Kendo Dojo

猫の妙術 前編

勝軒と言う剣術者の家に大きな鼠がいて、日中から家の中を走り回っていました。
勝軒は鼠の居る部屋の戸や障子をぴたりと閉め切り、飼っている猫に退治させようとしましたが、鼠は猫の顔に飛び掛かり噛みついたので、猫は泣き声を立てて 逃げ去りました。 この様子ではとても普通の猫では叶わないだろうと、近所でも鼠取りでは評判の猫を多数借りて来て鼠の居る部屋へ入れて見ましたが、鼠は 床の間の隅にひそんで居て猫が来れば物凄い形相で飛び掛かったり噛みついたりするので、どの猫も皆尻込みして進むことが出来ませんでした。
勝軒は腹を立てて、自ら木刀を持って鼠を打ち殺そうと追い回したけれど、手元から脱け出して木刀にあたらず、辺りの戸障子や襖などを叩き破るばかりで、鼠の素早さはまるで電光のようで、どうかすると勝軒の顔へ飛び掛かり噛みつくような勢いです。
勝軒は大汗を流し、使用人を呼んで「ここから七~八百メートル先に鼠取りにかけては大変に評判の猫がいると聞く。借りて来い」と言付けました。
さて、その猫を連れて来てみましたが、特に利口そうにも見えず、それほどきびきびとしているようにも見えず、半信半疑でとにかくやらせてみようと部屋へ入 れた所、鼠はすくんで動けなくなってしまい、猫はどうということもなくゆっくりと歩いていき、鼠をひっくわえて戻って来ました。
その夜、鼠取りに失敗した猫達が勝軒の家に集まり、鼠を退治した古猫を上座に招き、皆でその前に跪き、我々はよく鼠を取ると評判を立てられ、自分でも鼠 を取る事を修練し鼠だけでなくイタチやカワウソであろうと打ち砕くつもりで稽古に励んで来たつもりであったが、まさかこんな強い鼠がいるとは思っても見ま せんでした。
貴方はどんな術を使われたのか、いとも簡単にあの強い鼠を退治された。
お願いですから貴方の妙術を教えて貰えませんか、と丁寧に頼みました。
古猫はニコニコしながら、皆さんはどの猫もお若く元気そうだ。
大層素早く上手に鼠を取られるのだろうけれども、まだ正しい道理にかなった技法を身に付けておられないため、予想外の強敵に会って失敗してしまったのでしょう。
しかしながら、私がお話をする前に先ず皆さんがどんな修行をされたのかお聞きしたい。と言うと、元気のよい黒猫が一疋進み出て、
「私は鼠取り専門の家に生まれて、子猫の頃から鼠を取る事を心掛け、二メートル以上の屏風を飛び越え、小さな穴を括り抜け、早業、軽業何でも出来る様になりました。
又、時には眠ったふりをして策略を巡らし機会を狙ったり、時には急に動いたりして、天井裏を走り回る鼠でさえ取り損なったことは無かったのです。
それなのに今日思いもしなかった手強い鼠に出会い失敗してしまいました。
本当に残念に思っています。」
古猫は、あ々、貴方が身に付けたのは技術や形だけだ。だからいまだに上手くやってやろうとする気持ちで一杯だ。昔の先生たちが技術や形を教えたのは、上 達の為の方法を知って欲しいからだ。そうした理由からその技術や形は簡単で数も少ないが、その中には深い真理が含まれています。
最近は技術や形ばかりを練習し、こう来ればああするなどといろんな業を作り、技術ばかり上手くなり、昔の先生方の教えを不足とし駆け引きばっかり考え、終いには技術比べになり、技を出すだけ出してしまうとどうしようもなくなってしまう。
気持ちの小さな者が、技術ばかり練習し、駆け引きみたいなことばっかり考えていると皆こうなってしまう。考えることは心の働きであり必要なことではある が、道理に基づかず只、技巧に走ると本質を見失うきっかけとなってしまい、そうなると考えるという事が逆に害になる場合が多い。このような事にならないよ うに十分反省し、正しい方法を良く考えて見て下さい。
又、虎毛の大猫が一疋出て来て、
「私の考えでは武術は気力、気勢が大切だと思う。その為、気を練る、気を鍛えることを長期間修練してきたつもりです。
現在、私の気持ちはからっとして広く、こせこせせず、固く、強く、天地に満ちているようにさえ感じている。その気合で敵を圧倒し、機先を制して、先ず勝っ てそれから捕らえる。鼠の僅かな気配や動きにも臨機応変に対処でき、どの技を使おうといちいち思わなくても、自然に必要な技が出て来る。
天井裏を走り回っている鼠は気合で落として捕まえてしまう事が出来る程でありました。ところがあの鼠は来る気配も見せずに来てしまい、いつ動いたのか分からないうちに離れていた。これはどう言うことなのでしょうか。」
古猫は、貴方の修練したのは、気の勢いに乗って働くことです。自らの気力を頼みにしているという事で、一番良いやり方とは言えません。
自分が破って行こうとすれば、相手も同様に破ってくる。それでも破ろうとして破れない時はどうする。自分が覆い被さって相手を押し潰そうとすれば、相手も同様に覆い被さってくる。覆い被さろうとして覆い被されない時はどうする。
どうして自分だけが強くて相手は皆、弱いと言えるのか。
貴方の気が広く、固く、強く、天地に満ちているようにさえ感じるのは、うわべだけの気勢である。孟子様の説にある「浩然の気」に似ているが、実は別の物である。
孟子様の気は物事を見分ける知力を備えて強いのです。貴方の気は勢いに乗っているから強いのです。そういう事だからその効果は同じではないのです。
滔々と流れる大河の勢いと一夜限りの洪水の勢いの違いです。そしてその勢いに服従しない相手がいたらどうします。
「窮鼠却って猫を噛む」と言う諺もあるように、追い詰められた鼠は必死になって抵抗し生きることを忘れ、欲を忘れ、勝ち負けと言うことを思わず、身の安全を考えることもない。だから心はびくともしなくなる。
こんな状態になった者にどうして気の勢いだけで服従させることが出来ましょうか。
又、灰色の少し年を取った猫が静かに出てきて、
「確かに貴方の言われる通り、気は大事ではあるが、或る現象である。現象であるからにはどんなに小さくても目に見えるものだ。私はそうした考えで長い間 「心」を鍛えて来ました。虚勢を張らず、相手と争わず、相手に逆らわずに柔らかに受ける様な、心の働きの柔軟さと言うことを求めて修行してきました。
相手が強がるとき「和」の気持ちで柔らかく連れ添うように対して来ました。
私のやり方は相手が石を投げてきたら、幕の布で受けるようなものです。
どんなに強い鼠であろうと、私につっかかろうとして成功した鼠はいませんでした。
しかしながら、今日の鼠は勢いにも服従せず、やわらかに接しようとしても応ぜず、その動きは目にも止まらず、予測も出来ず、まるで神の動きのようで、このような鼠は今まで見たこともありませんでした。」
古猫は、貴方の「和」というものは、自然の和では無い。
頭で考えて仲良くなろう、親しくしようとするものだ。相手は攻撃の気がなくなりそうにはなるが、僅かでも貴方に考えがあれば、相手はそれを分かるものだ。
何かの目的を以て親しくなろうとするのは、純粋に親しくなるのが目的ではないと言うことから不純である。考えて何かをしようとする時は、自然な気持ちではない。
自然な気持ちでない時には自然に優れた働きがどうして出てくるか。
何かをしてやろうと思うことなく、何かをしようともせず、只、自然に従って動くときは、動きの前に現象として何も表れない。
現象として表れない時は、天下に自分の相手になるものは誰もいないと言ってよい。
さて、先程から貴方がたにそれぞれ種々言っているが、だからといって各々の修めて来られたことが全部役に立たない事などと言うつもりはありません。
「道器一貫」という言葉があります。
“道”とは刻々と流動変化する心の働き、すなわち目に見える形として表れる以前の状態で、これを『本体の理』と言います。
“器”とは表面に形として見えるようになった以降の事で、これを『工象の気』と言います。そして気のある所必ず理があり、理のある所必ず気は離れずにあるとされています。要するに、技術や形の中には深い真理が含まれています。
又、気は我が身を働かせる基です。
その気が心に広々と広がっている時は、何事にも自由に対応でき、穏やかな時には相手に攻撃する力を出させず、例え金属や石の様に強く固いものに当たっても、折れたり傷付いたりする事は無いのです。
そうは言っても、少しでもそうしようとする意識があれば、これらは全て、企み・策略となってしまいます。本当の自然ではありません。
だから相手は心の底から従うことはなく、自分に敵対しようとするのです。
私があの鼠を退治したのは特別の技を使った訳ではありません。
あれこれ考えず自然に対応しただけなのです。
しかしながら、修行というのはこれで終わりという事がないものです。私が説明したことが最高、最終と思ってはいけません。