Canada Youshinkan Kendo Dojo

熊の武者修行伝 その2

熊の拝見(熊)

10年ほど昔、今は亡き、楢崎範士九段と中西康範士九段にカナダにおいで頂いたとき。先生がたに無理を頼んで、お二人で立会いをお願いした。其の感動は、今も尚、熊の脳裏に焼き行いている。

熊如きが九段の先生方のお稽古をどうのこうの言える立場ではない事を重々承知の上で、あえて失礼を省みず書かせていただく。何故なら、この九段同士の立会いは、現在京都大会でも殆どお目に掛かれなくなってしまったからだ。ここで書かせていただかねば、九段の立会いが幻と消え去ってしまいはしないか、それでは、後進に目指す道しるべがなくなりはしないかと、勝手に思ったからだ。

このサイトを開いた目的が、出きる限り良い文化としての剣道を継承してもらいたいがために開いた。其の目的に免じて、鬼籍に入られた先生方にお許しを請い、書かせていただく。

熊が今まで見てきた、九段同士の立会い。大きく分けて二通りが有るように思う。一つは、九段同士、お元気さを前面に出し、お互いの技を披露し合う、手数の多い立会い。今ひとつは、お互いの気攻め、位攻めを大切にされて、重厚な立会いをされる方々の場合。

このお二人は、国士舘大学の同期で、小川忠太郎先生の薫陶の下に修行を積まれ、お互い気心も知れて、仲良しで有った。そこでどんな立会いをされるか非常に興味があった。

立ち上がり、お二人は、剣先が触れ合わない間合いで立ち上がられた、ジリジリと間合いが迫り、触刃の間合いから、交刃の間合いにまで、間が詰まり、どちらかが、技を出されるかと思って固唾を呑んで拝見していた。

ところが、交刃の間を過ぎ、中結いが交差しても打ちは出されない。がお互いの剣先が小刻みに揺れて、ビンビンと攻め合いが続いている、そしてお互いそのまま又間が詰まった。その間約二分間位だと思った。お互い一度も竹刀を振る事無く、お互いどちらからとも無く間を取り直された、そして又同じ二度目の攻め合いが続いた。

お互い全く譲るところが無い、其の剣先に秘められた気迫、は如何な未熟者の熊にも背筋が寒くなるほどの、緊迫感を伴い、手に汗握る状態で、完全に吸い込まれるように拝見するしか方法がなかっつた。多分この攻め合いも3分くらい続いたのでは無かろうか、非常に短く感じられた。

そして三度目の攻め合いが始まった、今度はお互いに間が詰まらない、触刃の間から、交刃の間を過ぎて、アッと思った瞬間に、楢崎先生が、面に飛ばれた、其れを、一歩前に進まれて、中西先生が剣先で楢崎先生の胸を押さえられた。まさに完全な相打ちであった。

其の一打が出たときに立会人をしていた羽賀範士が手を前に出されて、終わりを告げられた。後でビデオを見たら、何とお二人の立会いは15分にも及んでいた。見ているほうも緊張していた性か、時間が短く感じられたが、15分もの立会いを拝見できた事はこの上ない身の光栄であった。

其の夜、我が家での会食の時、お二方に聞いてみた。あの間が詰まりだしたとき何か考えて居られたのか。そうすると、お二人が揃ってあそこまで行ったら、突くしかない。お互い気が動いたら突こうと考えていたが、ついにお互いその機を見出す事が出来なかった。それで仕方なく、間を取り直して今一度お互いの機を探り始めた。

二度目も同じ機会が無い、お互い気の緩みか、打ち気が出れば、間髪を入れず、打って出たと思う。しかし、其の機が見出せないまま又間が詰まってしまった。

三度目の攻め合いで、間が詰まったとき、アレはどちらが仕掛けたのですか。と熊が聞いたらアレはどちらからと言うのではなく、お互い何と無くココだと感じられたそうで、感じたときは、お互いが出ていた。

ではお互いが攻め合いをされていて、間が詰まった時、間を切ろうと為さらなかったのは何故ですか。あそこの場面で、どちらかが間を切ろうとしたら、切った方が負けていただろうね。間を切るということは、攻めるより難しい。

間を切るのと、逃げるのは違うからね。逃げるのは簡単だが、延を切らずに間を切る、あの緊張感の切羽詰まった状況では其れが出来ないから、お互いが攻め続けた。

どちらにせよ、あの時点で間を切ったら、間を切った方が負けていただろうね。間を切ったら、反対側は片方は完全に捨てて打って出れるから完全に仕留められただろうからね。

我々くらいのところでは、間を切って、相手を引き出そうとしても、それには乗ってこないからね。だから、徹頭徹尾攻め合うしかない。それで心が動いた方が負け。と解説を頂いた。

気と気の攻め合い、其の中で機を探る。機が感じられたときは、既に勝負は付いている。そんな立会いを手に取るように拝見できた。恐らくこんな好機は二度と持てまい。お二人には改めて感謝の他無い。

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剣道修行の要諦(熊)

今朝、会社の経営上の打ち合わせ時間、白熊が剣道の話をしてきた。コイツもやはり、剣キチだね(笑)。丁度昨日、剣道日本が届き、選手の竹刀の持ち方の特集を見て、竹刀の持ち方の可笑しさに気づいてのコメントだった。

勿論、世の中には色々の流派があり、考え方が有る。だから其の遣り方を如何のこうの言う積りはない。ただ、剣道で有る限り、刀の持ち方に反する持ち方は如何かなと思う次第である。竹刀だから、叩けばいいのだから、叩きやすいように持つ、では?熊感覚として、疑問符が?????並ぶからだ。

其れは教え子の白熊とて同じであろう、羽賀の親爺が言う処の切れる剣道とはかけ離れているからだ。昔、有る講習会で、雑誌と同じ竹刀の持ち方をしている、有名範士が、刀で新聞きりを遣って、たかが新聞一枚切れなかった。ご本人非常に慌てて居られたことを思いだした。

チャンピオンの握り方も紹介されていた。おおむね「良」だが、両手の親指の第一間接が曲がっている。親指の第一間接が曲がれば、竹刀の打突時、必ず手首が硬くなる、つまり、冴えた打ちが出来にくくなる。竹刀を握る時、親指と、人差し指に力を入れないのが原則だ。

だから、親指の第一間接が曲がっていると言う事は、親指に力が入っていると言う証拠な訳だ。熊が、自分のサイトの中で良く言う、ミクロの矯正。こんな些細な事に気が付いて、直していくが如何か、其の、積み重ねが、進歩のスピードに大きな差を生むと考えている。

我々はプロではない、あくまで趣味で稽古をしており、稽古時間が絶対彼等から比べれば少ない。だからこそ、工夫と、小さな努力の積み重ねで、其の差を短縮する努力を惜しんでは成らないのだ。

それで、話に話が飛びに飛び道場の生徒の指導の話になったり、自分たちの剣道の修行の話にまで飛び火した。そこで、出てきた結論は、剣道とは、究極、攻めと、溜めの修行ではないかと言う事に成った。

勿論、初心の間は、身体をかけて運動能力を高めなければならないが、年とともに筋力が衰え、其れと同時に、引き換えにと言えば良いのか、無理と無駄の無い動き、柔らかい動作が身に付き、間合いの見切りや技能が身についてくる。

さて、其の段階に来ると、修行目的が肉体を離れて、心や気の問題になってくる。そこで、最終的に、名人と、凡人の差が何かと言う事に成れば、攻めと溜めに行き着くと言う事になった。このままでは消化不良を起こす人が出るやも知れない。もう少し解りやすく言えば。

攻め=強い気迫、集中力、絶対の積極性、相手を容易に四戒に追い込む事が出きる。何時でも打てる打突準備、相手の攻めに挫けない、信念、不動心、平常心にまで繋がりを見せる。

溜め=最後の最後まで冷静に見極め、狂いの無い、判断が下せる。見切り。胆力。其れが出来て、初めて、間違いのない打突の瞬間が解り、決断が下せる。ここでも不動心、平常心の繋がりを見せる。攻めと溜めこの事の修行が、剣道の奥深さを具現化して、その修行差が名人と凡人の剣道の実力差、偏差値、になるのでは無かろうか。だから、最終的に、肉体的運動を離れた処に剣道の集大成が有るのだという結論に達した次第。

剣道で学ぶ事、世間一般の出来事や、自分の人生に照らし合わせて、剣道の教えは経営哲学にも通じる。こんな経営会議も満更ではないのだ。

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自然体(佐藤博信範士)

今から19年昔熊が42歳の時、七段受験で、日本を武者修行して回った。富山、山梨、京都、大阪、名古屋、静岡、東京、毎日、朝昼晩2~3回稽古をさせていただいた。そして東京で審査を受ける事にしていた。

其の頃警視庁武道館は、東京の春日に有った。朝稽古を頂いた後、警視庁から六段七段を受験される方々の模擬審査が行われるので、熊にも参考のために模擬審査を受験してみてはと、お声が掛かった。

勿論此方に異存が有るわけではない、喜んで参加させていただいた、その結果、一応可とされた。

しかし、其の時、主席の佐藤博信先生から、熊はカナダで稽古している、だから構え誰かに見てもらっている訳ではないので、は恐らく鏡を見て直しているものと思う。

と、指摘を受けた。確かに鏡を見て自分の悪弊を直していた。

だから構えが四角く硬い。剣道の構えは、右足、右手が前で構えている。だから必ずいくらか右半身になるのが自然体である。構えを作りすぎて、正面に真四角に構えるのは無理があり自然な打突が出来ない。左肩を少し後ろに引く積りで構えなさいと、指摘を受けた。

其れを意識して稽古をするようになってから、足が自然と出るように成った。そして今まで、不器用なくらいに力んだ稽古だったが、肩の力が抜け出し、非常に竹刀操作が容易に成り出した。

不思議でもなんでもないことかもしれないが、身体に一部の本の少しの矯正が上手く行くと、他方まで、良い影響が出てくる。だから今でも構えは必ず稽古事に自分でチェックしている。

しかしながら幾ら自分の構えとて、気を抜けば途端におかしな処が出てくる自然体の構え、楽なようで、其処に到るまでは楽ではない、試行錯誤、工夫に工夫を重ねて初めて作り上げることが出来る自然体。

剣道における自然体は、窮屈の中を通り抜けて、初めて出来るのが本当の自然体なのだと気付かされた。

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剣道家の恥(小川忠太郎範士)

熊が若い頃、26~7歳であったろうか、毎日稽古をしていた、素振りも毎日課していた。当時、田舎の事ゆえ、自分ほど稽古をしている人間は居ないと自負していた。

おりよく小川忠太郎先生が稽古会にお見えになり、先生に筋が良いと褒められた。自分では稽古をしているつもりで居たので、熊は自慢げに先生に言った、今県下で一番稽古をしています。

そうすると先生は熊に言われた。彼方も剣道家の端くれなら、自分の修行を自慢してはいけません。本当の剣道家は、黙々と人に隠れて、人一倍に修行をして当たり前なのです。

だけど、どれだけ修行しているなどとは言わない。自分の修行が足らないと自覚しているからです。自分の修行を自慢している間は、本物では有りません。上には上が居るものです。自分の修行を自慢していると、不覚を取りますよ。と戒められた。

有り難かった。田舎者の天狗の鼻を見事に折って頂き、本当の修行者の態度を教わった。後に、県警の機動隊や、警視庁にお邪魔する事になり、彼等が修行している、稽古量。日に二回は最低で、三回、四回の稽古は当たり前の世界である。日に一回の稽古ぐらいで、いい気に成っていた自分が恥ずかしい。剣道の稽古は何も道場でだけするのではない、道を歩いている時にでも、姿勢は直せる、足捌きも直せる。かばんを持っていれば左手を鍛える事だって出きる。傘を持つ手で、手の内の握りの確認もできる。電車に乗り、わざとつり革に繋がらずに、体のバランスを鍛えたという先生も居た。

工夫さえすれば方法は考えればどれだけでも有る。ただ其れを実行できるかどうかだけの問題だ。一番、見ていていやなのは、いかにも自分が遣っていると自慢げに話す人だ。自分がそうであったから、尚更わかる。未熟さが諸に出ている。気をつけたい事の一つだ。

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熊の形の話(諸先生方)

剣道形を勉強する上で、もう少し格上の形を勉強したいと考えている人。こんな点に、意識を置くと、面白く勉強できますよ。

これは、熊が今まで教えを受けた九段クラスの先生方から聞いたお話。信じる信じないは皆さんの判断です。

①皆さんは1寸止め、とか5分止めなどという言葉を聴いたことがありますか。打太刀なら、出きる限り相手の切る場所に完全に届くように切る。仕太刀は出きる限りからだの近くで打太刀をかわし、打ち込みを出きる限り切る目標に近く刃を止める練習をする。但し、これは余程気をつけてやらないと怪我の元。だから集中力が養え、間合も養える、真剣みが身に付くでしょう。おまけに怖いから、度胸、胆力、見切りが養える。おまけに、溜めと言うことも理解出来る様になります。良い事ずくめだよ。

②太刀の形5本目、6本目、小太刀、1.2にすりあげの技がありますよね。このすりあげを出きる限り、音を出さないようにする、カチンと音がするのは下手な証拠。正しいすりあげは、すれる音だけで、カチンとぶつかる音はしないはず。これは素晴らしい手の内の勉強になりますよ。

③昔、仲良しの範士八段同士が形を打ちました。其の時に、今日は俺の勝ちだ、今日は俺が押された、と言われていました。何の事だか解らないまま聞いていました。後で其の答えを聞いたら、形は形の上で、上の人が下の人に勝ち方を教えるので、見た目は、勝ち負けが有る。だがお互いに真剣に形を打てば、当然気位と気位の争いになる。気と気の真剣勝負。

だから、お互いが始めた場所を確り覚えておく、形が終わった時点で、どちらが、どれだけ移動しているか、必ず中心に戻る事になっているが、わざと其処に戻るのではなく、お互いが自然にやり、どの位置に戻るかで、気位の争いが見えてくる、負けたほうは後ろに下がっている。但しこれは意固地になって前に出て形を打つのは逆効果なので、あくまでお互いが、直心、素直な心、正しい心でやらなければ意味が無い。

このお二人後で九段に成られました。

こんなところを意識すると形が変わってきますよ。但しこの稽古法は全て自分の責任においてお稽古ください。未熟な形は危険が伴いますので、気をつけておやりください。

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中村天風師の教え(賀来俊彦範士)

信念と奇跡。

これは2006年京都で範士から渡されたノートめもに書かれていたものである。台は信念と奇跡。奇跡と書かれていた。熊は、天風師の本の中から、呼吸法、心の調整方など、クンパハカ、等等、多くのことを学び、今も尚、勉強させていただいています。若し皆さんも時間があれば、中村天風著、成功への実現を読まれる事をお勧めいたします。この中で野教え、呼吸法は、剣道に非常に役立つ。

この中村天風師の教えは、森島建夫範士、わが親父、羽賀忠利範士、原田源治範士、賀来俊彦範士の先生方も愛読されて、勉強しておられます。

①信念と奇跡

吾は今わが心の奥深くに奇跡を行い得る、神秘の力の潜在する事を悟り得た。そして人はこの力をよりよく活用する事により、人の値打ちが決定される事を悟り得た。

そして今私はこの尊い現実を悟って、わがいのちの中に輝く尊い光を自覚する。同時に過去の一切の無価値より解脱して、格調高き人生えと、いままさによみがえる感激とよろこびにわが心は炎ともえたつ。

そもや自己を作る物は自己である。そして自己を正しく作るには、何をおいても、自己を正しく律する事である。しかも自己を正しく律せんと欲せば、ただ偏えに信念を基盤とする連想の観念を、常住わが心に中に厳かに確保せざるべからず。

かるが故に、いまこんにちからは、いかなる時にもこの心的態度を不断のものとして、わがいのちを正しく作る自律基盤の力を、かりそめにも緩めざらんことを、慎ましやかに己の心としよう。

②信念

信念それは人生を動かす羅針盤の如き尊い物である。したがって、信念無き人生は、丁度長途の航海の出来ないボロ船のようなものである。かるが故に、わたしは心理に対してはいつも純真な気持ちで信じよう。否信ずる努力をしよう。

もしも疑ごうて居る様な心もちが少しでもあるならば、それは私の人生を汚そうとする悪魔が、魔の手を伸ばして、私の人生の土台石を盗もうとしているのだと気をつけよう。

追伸、蛇足、熊めには三つの尊敬する天があり、其の一つが大宇宙の真理、真の天。中村天風、それに、羽賀忠利(楽天)雅号、です。それで、其の天を敬う心から、熊の雅号を「天敬」とさせて頂きました。

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神秘の力(賀来俊彦範士)

2006年の京都大会、朝稽古の後ご挨拶に行き、昨年お話が聞けなかったので是非今年は、とおねだりをしておいた。

そして朝稽古がを終え、行きつけの道具屋に道具を置きに行ったら、其処の後ろの石碑の処で先生が腰掛けて待っておられた。そして一言。「お前は良い時に来たな、俺が今悟りを開いたばかりの時に聞きに来た。これは神秘である。剣道はな、全て神秘で出来ている。打つのも神秘、受けるのも神秘。打たれるのも又神秘なのだ。」

コノ先生、必ず狐につままれたようなお話から、本題に入る。前回は万有引力IN剣道てな話から、本題に入った。それが又非常に面白い。そして非常に為になる。

先生は、中村天風師の信奉者でもある。偶然。熊も羽賀の親父からその人の著書を頂、人生最大の難関を乗り切る事が出来た。だから、信奉者の一人と言って良いだろう。先生は其の中村天風師の教えの中から、抜粋した、メモを書いて熊に渡された。そして、今の剣道界おかしな方向に行きよるから、お前が正しい事を伝える役目をしてくれ。私ら古い剣道家が何を思い何を考えているか、今の人々に伝えて欲しいと頼まれた。

先ず剣道は神秘について。先生の考えを伝えたい。

「あんな、稽古の中でやね、相手が打ってきよるやろ、お前それを一々見てから、どうしたらエエか考えて打ちよるか?」

(いいえ、殆ど無意識の間に反応して、何か方策を施していますね)

「そやろ、自分で何も意識しとらんのに、体が勝手に動きよる。な、打突にしてからがそうや、アット、想うまもなく打ってしもとるやろ。」

(ハイそうですね、考えていたら打つことは出来ません)

「だからやね、剣道は神秘そのものだということや、誰の命令でもなく、意識の中にすらない、自然に行動がでてきよる。コレが神秘でなくて、何が神秘や、お前コノ話聞いたら強くなるで~」

(先生、そんな、聞いただけで、強く成るんですか?)

「そや、コレを聞いて、神秘やと言う観念がでけたら、つようなる。そして、又其の神秘と相交わるように、成りきれるように成ったらつようなる」

「神秘、詰まり人間本来の姿、コレも神秘や、存在そのものが神秘やねん。なあ~、人間何処から来たか、答えられるか、普通の人なら言うやろう、おっかさんのおなからや言うて、では其の先は、おとっあんの、腹からや、な。ソンなら其の先は、又其の先は、言うて行ったら、際限なくこれは神秘やとしか言いようが無くなる。」

「だから、自分は神秘の中で生かされ、神秘で行動しとるわけや。神秘そのもの。それが解ったら、無心の打ち、捨て身の打ち、なんてこと言わんでも解るようになる。」

今年も、う~ん~~とうなされてしまいました。

少し、皆さんイわかりにくい点が在るかとも思いますので、熊なりに、解説をつけると、

神秘=つまり全て自然のままに、何の汚れも無い心で、その場の状況に自然に対応していれば、自ずと、体が自然に働き勝ちを得ていると言う事。コレこそが無心、無念夢想の最高の境地なのだと言う事、いや其の観念すら恐らく無い状態の、境地なのだろうと考えます。

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相手と和する相戦い(羽賀忠利範士)

今年の京都、武講同窓会の稽古で、熊を叩きに来た人を叩いたら、稽古を見た、親父からおしかりを受けた。

「八段に成ったら相手と和する稽古をしなさいと。」そこは、話だけを聞いていたが、静岡の藤枝の養心会の稽古の折、手書きの書面を渡された。

其処には3つの教えが毛筆で書かれていた。其の中の一つ。鬼一法眼が源義経に当てた手紙に曰く。

来則迎去則送対則和五五十ニ八十一九十以是可和察虚實職陰伏大絶方処入細入徹塵殺活在機変化応時臨事莫動心矣

寿永三年二月鬼一法眼源九郎殿

訳すれば

「相手がやってくれば、すなわちそれを迎え受け、相手が去っていけば、すなわちそれを見送る。

相手と我と、双方向かって相対すれば、相和する。この自然の調和と、円満な心のバランス。

それを、数字で表現する成れば、彼が五、我が五。この五と五を加えれば十と成る。

ニと八。一と九。この二つの数を加えればすべて十となる。この十と言う数字は充実円満。しかも、調和とバランスを示す「和」の数字である。

ところが、ニとニ、八と八を加えれば、四となり十六となる。前者は十に足らず、後者は十を超過する。

相和して十となる彼と我。常に、この十となる心と形こそ円満充実。しかも、調和とバランスを持つ大切な「和」の心であり、「和」の姿である。

この自然の理にかなう、心のバランスを持てばこそ、明鏡止水、相手の、虚と実が、正しく観察され、あらゆる、陰伏(駆け引き)がかくれなく識別される。」

熊の訳=詰まり何事も遣り過ぎてはいけないし、不足しても駄目。打ったり打たれたり、もちつ、もたれつ、相手と和する気持ちで相手と対すれば、全てが主導権を持って上手く使える。でも熊はすぐ、相手の行儀が悪いとカチンと来る。未熟未熟。死ぬまで直るかな?

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冴え(羽賀忠利範士)

剣道の打突では、「冴えた打ち」が求められます。「冴え」と言うのは竹刀の物打ちが、打突部位に当たる瞬間の鋭さと強さの事です。

剣道でいう「一本」とはこの冴えた打ちのことで、これが無ければいくら当たったとしても中々一本とは認められません。冴えた打ちを心掛ける為には次の事に気をつけて稽古に励んでください。

1.左手を鍛える事。

左手で、竹刀を振り、打つ瞬間(空間打突でも、素振りでも)に、小指を確り締める。柄頭が手のひらの中で滑るのはよくない。

2.右手と、左手のテコの応用を確り身につけること。

左手は竹刀を引き降ろす切り手。右手は竹刀の物打ちを打突部位に正確に到達させるために、伸ばす押し手。左右の反作用を助けるために肩、肘、手首、指、全ての関節を柔らかく使う事。

3.竹刀は重いものを振るように力を入れて振るのではなく、筋肉を柔らかく楽にして、振る感覚を覚える事。

物打ちで、打つ瞬間、両手の小指を意識的に締める。

4.竹刀は風を切るように振る事。

何時も軽く握って、軽く振る癖を付けてください。

初心者の人と稽古をすると、大変痛い思いをする事がある。打たれまいとする、恐怖感と、ある種の興奮状態で打つために必要以上の力みが生じ、力一杯打つためで、このような打ちには全く冴えがありません。単なる強い痛い打ちと、冴えた打ちとは違います。

「力み」は剣道修行上の一番大きな障害です。ある程度の高段者になっても、右手の力がぬけずづ冴えた打ちが出来ないのは、打たれずに打ちたいと思う観念が、生じさせる力みの結果で、自分で自分の重菜動きを殺す状態に繋がっています。

正に、自分の心こそ、自分の心を迷わす自分の心であって、自分の心に自分で言い聞かせ、自分の心に自分で迷わない様にすることが大切です。誰でも、素振りや、基本打ちの時に、手の内がそんなに硬くならずに、冴えたうちが出来るのに、実際稽古の段階で、硬くなってしまうのは何故でしょう。其処のところを良く良く考えて見てください、答えは自ずと見えてきます。

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足捌きと体捌き(羽賀忠利範士)

最近の剣道は、縦の剣道とよく言われる。これは試合偏重の弊害から打突のスピードを重要視するあまり、間合いの取り方に前後の動きだけが多く用いられるようになった為であろう。確かにスピードとパワーを主体にして、先を懸け遠い間合いから思い切り捨てて打つ打突には魅了するものがある。

しかし、最近はお目にかかれないが、昔の先生方の中には、見事な足捌きで、縦、横、斜めと道場の床の上をすべる様に縦横無尽に動いて相手を捌かれる先生方をたくさん見た。特に、総じて、小柄な先生方は、足の動きが良いようにお見受けする。私の師匠、羽賀先生もまた素晴らしい足捌きをされた。これはご本人の研究もさることながら、中山博道先生の影響を強く受けられたとの由。

博道先生も小柄な方で在ったが、お弟子さんに稽古をつける時、他の先生方の1.5倍は速かったそうです。他の先生が10人使われたとしたら、博道先生は15人使われたそうです。また、博道先生は合気道の開祖、植芝盛平先生と入魂の間柄であり、其の縁からお弟子の中島五郎蔵、羽賀準一、中倉清などの先生方も植芝家に出入りされていた。で、体捌きは合気道から学ばれた点が大きかった。其の捌きは、羽賀準一先生から、弟の忠利先生にも受け継がれた。それは見事な足捌きで、まるでダンスを踊るかの如き足捌きでした。

忠利先生から伺った指導の中に、足捌きの大きなヒントがあると思うので、紹介します。

1.稽古中、踵は両方とも絶対床に付けない。(踵が付くと居付き易い)

2.足捌きといえば、殆ど右足から動き始めるが、左足から動かす方法を知る事。

3.前後の送り足は、誰でも使うが、開き足、歩み足をうまく使える人は少ない。

4.子供の打ち込みの元立ちになった時は、足捌きを稽古する絶好のチャンス。

5.右足を踏み込むことが気剣体の一致を作ると、思っている人が多いが、左足でも十分踏み込めるし、気剣体の一致も作れる。左上段は、左足で打ち込んでいる。

6.絶えず腰を中心に、移動を心がける。

以上、よく口にされ、また実際に範を示して、頂いたことを列記して見ました。足捌き、体捌きに、こだわりを持って、稽古するのも面白いと思います。特に小柄な人は大きな武器になります。

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半身の矯正(榊原正範士)

熊画25~6歳のころ、ある日、範士の会話。

範士「熊、家で毎日素振りをしているか」

熊(いいえ、天井が低いもので、素振りはできません)

範士「それは言い訳だろう、正座して素振りをすれば、天井にぶつからないよ」

熊(アッ、そうですね、明日からやります。)

範士「正座で素振りをすることは、半身の矯正に実に役立つ。正座の姿勢では半身になれないからな。」

熊(そうですね、判りました、それで何本くらい素振りをすればいいでしょう。)

範士「毎朝、寝起きに、布団に正座して、100~150本、それで、竹刀の握り、肩の運動、腹筋、背筋が鍛えられる。、高々2~3分だ。枕元に竹刀を置いて寝れば、習慣になる。一年も続ければかなり楽になるぞ。」

これを実践することで、熊は、副産物を得ることも発見しました。寝ぼけ眼の体に自然に渇を入れることになり、溌剌とした毎日が送れるようになりました。

そして、これを模擬刀でやることにより、正しい竹刀の握りと手の内を身につける事が出来ました。毎朝高々2分の稽古、負担にならず、確実に効果が出てきます。皆さんにもお勧めします。

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五戒(小川忠太郎範士九段)

この事を書くのは非常に面映く、辛い物がある。自分が出来るかと問われれば、NOとしか答えられない。が、しかし、教えられた貴重な教えは、熊が出来る出来ないにかかわらず、ご紹介しなければならない。熊が出来なくともこのサイトを御所見の賢人の方々には容易なる事かも知れないからだ。自分への反省をも含めて記載させていただく。

1嘘をついてはいけない

2怠けてはいけない

3遣りっ放しにしてはいけない

4わがままを言ってはいけない

5人に迷惑を掛けてはいけない

ものすごく当たり前で、簡単なことのようですが、熊には大変難しい。小川先生が曰く、「これが出来た初めて人間なのです」と・・・・。この言葉が、小川先生の口から発せられたとき、若い熊は、そんなことできる筈がないと思ったものだ。まだ、人間以下だと言うことか・・・。だが出来ないまでも努力はしたいと思う昨今です。

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冗談(羽賀忠利範士)

羽賀先生は本当に博識です。又、本当に良く本を読んでおられ、絶えず勉強を成されています。そして時々、上手い落ちの有る冗談を言う事もあれば、笑えない、サム~イ冗談も飛ばす事が有る。その中で幾つか成るほどと感じたものを紹介いたします。

サム~イ例。

三磨の位=秋刀魚の暗い(変換ミス)

黒板に大きな丸を書いて、三箇所に点を打ち、「これが伝書の極意だそうですが、これでは、テンデ解らん。」

柳生心陰流の伝書の中に、○に三箇所点が打って在り、口伝と記されて居るそうです。これを先生称して、点で解らん。といわれた時、誰も笑いませんでした。これは、三磨の位について述べて有る。つまり、正しく学び、正しく工夫をして、正しく体を掛けて習得する。このことの繰り返しが上達に繋がるとの意味なのだそうですが、皆意味が解らんかったのかな~。

自己=我

「自分の姿を鏡に映し、鏡の前で、がを取れば、全ての人は神になる。」

カガミ-ガ=カミ=神

剣道で、打たれたくないけど、打ちたい。打たれた後に打ち返してくる失礼な剣道人を良く見かけます。打たれたことを認めたくない=我の固まり。そんな人は自分の行動や心を、カガミに写して見ると良いでしょう。醜い顔と心をしていますよ。その鏡の前で反省して、自我を取り去れば、神のような神々しい顔になります。

チャンス=機会を捉える

西洋のことわざに曰く、「チャンスの女神に後ろ髪が無い。」前髪だけしかないそうです。そんなのは、女神じゃなくてお化けだけども、チャンスは後からでは掴めない。マエで掴みなさい。私は、前髪が無いから、どうにも掴めないでしょう。これは稽古の量で前髪を掴まれないように成りました。これ以上掴まれたら本当に全部なくなる。これには皆爆笑でした。

人間の粋

静岡に江戸の昔、白隠と言う禅の高僧が居た。山岡鉄舟の禅の先生と言うべき人。この白隠さんが粋な事を言っています。

「お富士さん雲の衣を脱ぎゃしゃんせ、雪の肌へが見とうござんす」

禅のお坊さんでもこんな粋な人が居る、人間何も四角四面が、真面目ではありませんよ。要はバランスです。偏ってはいけません。

書けばまだまだ有るのですが、今回はこの辺で。

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子供の指導(奥村京助範士)

奥山範士がカナダに来られたのはトロントの鎌田先生が招聘されての事でした。その時、岩谷範士、伊藤教士が同行されて、筆舌に尽くせないご指導を頂きました。丁度その頃、奥山先生は、剣道雑誌に子供の指導法を発表されて居られました。そこで熊が先生に聞きました。

先生、子供の指導で一番大切ななのは?とお尋ねしたたら、「一を叱って、八ほめて、後は見逃す余裕かな

成るほどと納得しました。

では、技術指導で心がけて居られる事は?「口で教えて、遣って見せ、後は気長に待つ心

繰り返し、繰り返し遣って見せ。子供ができるようになるまで、焦らない事。

では、先生、子供を強くする方法は?「負けた子供をほめてやれ、そうすりゃ、試合が上手くなる

負けた子供の良い所を見つける力、本当の指導力が問われる所です。

ちゃんと七五調ででまとめて居られる、粋ですね、さすがですね。

それでは、一般の人の稽古で、気をつけて居られる点はどんな処でしょう。

「一般の人の稽古で大切なのは、戦う気迫です。気迫の無い稽古は上達しません。」

ではその気迫を出させるためにはどんな指導をされますか。

1「大きな声を出させる事。腹の底からめまいがするくらいに大声をださせる」

2「思い切った大技を使う。捨て身の大技を使う事により、勢いが出てくる」大技は相手の意表をつき、又、大技を使うための度胸が出来る。

3「喧嘩腰でやる。突かたら突き返す、打たれたら、打ち返す。激しい技の応酬」喧嘩腰でやる事により、真剣みが、出て来る。少々荒々しい稽古の方が気迫が出やすい。

4「明るく、張り切ってやる。張り切っていれば、積極性が出てくる。」打った、打たれたはその場限り、頭に残さない。頭に残せば、稽古が暗くなる。

5「自分で自分の息を上げる稽古をする。先に掛かり、一歩も引かない。」自分で先、先と攻めて出て行く。攻められて,息を上げられるのとは、まったく違う。

こんな所を、気をつけて、稽古に取り組めば、稽古は良くなります。勿論、基本打ち、技の練習、理合いの研究は絶対おろそかにしては行けません。

稽古で熊は完全に範士に翻弄されてしまいました。技のデパートかと思えるくらい、片手面、片手突き、被き技てんてこ舞いで息も絶え絶えでした。昔の先生は、技も多彩で型にははまらない先生が多かった。

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審査の心得(森島健男範士九段)

森島先生と初めてお会いしたのは、富山で全日本剣道連盟の伝達講習会の時でした。熊がまだ26才くらい。

その時一番初めに掛からせて頂いたのですが、何をしても触れさせて頂けない。処が、何が如何間違ったか、一本、綺麗に面が入った。稽古後、ご挨拶に伺うと、「貴方は県警の方ですか」と聞かれたので、「いいえ、町道場で稽古しています」と答えた処、「けれんみの無い良い面をお持ちですね」と言われたので、穴にも入りたい気持ちでした。その時、私の横で挨拶に出ておられた熊の師匠、村雲先生(国士舘の森島先生の後輩)が、「先輩、私の教え子です」と紹介いただいた。すると「おおう、そうか、村雲の弟子か、良い弟子を持ったな」と言われたので、本当に恐縮してしまいました。

それ以後、年賀状だけのご挨拶でしたが、七段を受験するために帰国した時、おり良く韓国で行われる世界大会の審判講習会が明治神宮であり、オブザバーとして参加させて頂いた。その時、講師として森島先生が出ておられ、再度ご指導に預かる機会を得ました。その講習会の始まる前、ご挨拶に伺い、富山での思い出話をさせて頂きましたら、覚えておれ、しばし歓談をさせていただきました。

そんな事があり、その後も賀状だけの挨拶でしたが、熊が2度八段審査の一時を通過して、4度目の挑戦の時、誰に聞かれたのか、どこかに私の記憶があったのか、暖かい、お手紙を頂きました。

内容は審査についてのアドバイスでした、内容をご披露させて頂きます。

審査は一人三分である(実は2分である)。三分も有ると思えば余裕が出てくる。同じ三分でも三分しかないと思うと、余裕が無くなる物である。三分も有ると思って余裕を持って挑みなさい。それと、どうしても合格しなければ成らないと思うのではなく、落ちても良いと開き直って行きなさい。合格しようと思うと、大胆さに欠けることに成る。落ちてもいいと思うと、余裕が出てくるものです。

そして、「遠地、カナダでの日頃の精進敬服に値する」と結んでありました。途轍もなく、恥ずかしい未熟者ですが、熊如き、田舎剣士にこの心温まる、思いをはせて頂ける、幸せをかみ締めました。

その後、東京武道館で行われた全剣連の合同稽古会でお願いする事もありましたが、何をどうこうしても大きな岩に跳ね返されるような感覚だけが残りました。偉大な先生のお言葉をいただけた熊は幸せ者です。

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出端面(野正明正、豊稔両範士)

此処に登場するのは、野正明正範士と豊稔範士お二方である。熊が八段を目指して全国を回っていた頃、九州小倉で、野正明正範士にお稽古を頂きに行った。明正範士とは武講同窓会で、ご指導を得てる関係で、ご無理をお願いしてお稽古を頂いた。もう一人の、豊稔範士は世界大会フランスで審判を共にさせていただいた関係で、お近づきになり、東京に御住まいの先生に、三菱道場と、京都大会でお稽古を頂いている。お二人はご兄弟である。

お二方が共通で、ご指導頂くのは始めから最後まで面打ちだけである。篭手や胴を打つと、首を横に振られる。徹底的に面打ちである。それも出端面。先生が一寸間を詰められる、その出端に大きく面に飛ぶのである。

その機会が遅すぎてもダメ、早すぎてもダメ。間を詰める、そのツの字を打たなければご納得を得られない。それも徹底的にやらされる。出端の面は、色も無く、カズキも無くただ一直線に大きく中心を割って打たなければ成らない。色や、起こりや、カズキが有ると、範士の剣先が容赦なく、此方の喉を鋭く突いてこられる。だから、必然的に、良い面うちと、ソウでない面うちが、離反されてくる。

このお稽古は、京都で今だに続いている。今年、(2005)の京都で、4年ぶりに範士にお目にかかり、お稽古を頂いた。八段位に成っても、その稽古は変わらない。ただ、以前と変わった事は、今までは、間を詰める、ツの字(動作の起こり)を打って居たのが、今年は途中から、攻め合いをきちっとした上での、出端の面に移行したことだ。要するに、八段位に成れば、「気の起こりを捕らえよ」とお教え頂いているのだと解釈した。

しかし不思議に、お二方とも同じ教授法でご指導を頂いている。おそらくお二方も若かりし頃、お二人の先生から、徹底した出端面で、修行をさせられたに違いない。正しい出端面が打てるか如何か、私は、八段の鍵はここに有ると考えています。お二方ともそれが鍵だと解っておられるからこそ、徹底して出端面にこだわってご指導しておられる物と思う。

ありがたい事です。

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覚悟(裏話)(楢崎正彦範士)

中西範士と、楢崎範士、国士舘の同期。カナダでお世話させていただいた時、お二人の雑談で面白い話を聞いた。あの大先生方でも、こんな粋な話をされるので、ご紹介したい。

楢「中西、俺は○野田少尉とは、中野学校で同期。彼が南方で発見されて、帰国。彼が嫁さんを欲しいと言った。しかしその条件が何と、相手の方は絶対処女でなければならないと。○野田が言うには、俺は正真正銘の、童貞だから、如何してもその線は譲れないのだ、と言う訳だ。それはそうだろう、南方のジャングルで、戦後30年余りもゲリラ戦をやってきた。その男に女が居るはずが無い。俺は困ってしまったよ。見合い写真は沢山用意もできるし、彼はなんと言っても時に人。話は沢山あるが、40半ばを過ぎて処女を探せと言われてもナ~」

中「お見合いの相手の方々に、いちいち聞くわけにも行かんしな。」

楢「そこで、家内にそのことを打ち明けたら、大丈夫、私が探します。と言う訳で、上手く紹介できた。」

中「へ!探せば居るもんだな~」

楢「イヤイヤ、それが中々苦労したんだよ。笑。あいつの、理想が高すぎて(笑)、でも何とか纏まった」

中「良い事をしたじゃないか。」

楢「俺たち中野学校の生徒は生きながら命を捨てていたから。彼の思いを遂げさせてやりたいと思ってね。」

中「確か日本舞踊の先生だとか?」

楢「ソウ、だけど彼女も中々の人で、男嫌いで有名な人だったらしい。下らない男性には見向きもしないで、独身を貫いてきた。どちらかと言えば、彼女も浮世離れしていた」

中「それはソウだろう。でなければ、中々○野田さんの奥さんは務まらない。」

楢「でナ、あいつ何処で仕入れてきたのか、面白い話をした。昔々、神様の下へ、全ての動物が子作りについて相談に行った。だから在る動物は、一年に一度。在る動物は一年に二度シーズンがある。処が、ねずみが神様の所へ聞きに行っている時に、遅れていった人間があわてて行った為に、障子の影で神のお声を自分へのもの、と誤解して聞いてしまった。『何時でも好きな時にせよ』と。だから、鼠と人間だけが、シーズンオフが無い。」

皆で爆笑。(本当に、車の中は大爆笑に成りました。)

中「しかし○野田さんはどんな気持ちで、ジャングル生活をしていたのだろうか」

楢「戦いだよ、戦い。彼の頭の中には戦いしかなかった。いつか日本が盛り返してくる、それを信じていた。」

中「それだけだけで、あそこまでの行動が人間に取れるものだろうか?今の世の中では想像が出来ん」

楢「俺でもソウだよ。現代の安全で平和な世界に慕ってしまったら、昔を簡単に忘れてしまう。」

中「覚悟が出来ていたんだろうな、何時でも死ねる。」

楢「いやそうとは違うらしい、生き抜くことが、彼の覚悟だったらしい。どんな苦境に立ってでも、生き抜くことが。彼の覚悟で在ったらしい。侍で有る以上、最後の最後まで戦い続ける。刀が折れようと、鉄砲玉が尽きようと、死ぬまで戦う。そのためには何でもやる。だから俺が想像していた以上にあいつは世間に明るかった。情報を集めていたんだな。」

中「では何故戦争の終結を知らずに居たのかな?」

楢「それは、朝鮮戦争に原因が有るらしい。」

中「と言うと」

楢「日本が敗北した時に、米軍がちらしを撒いて、戦争終結と投降を促した。しかし、其処は中野学校。簡単には敵を信じない。ソウコウしている間に、朝鮮戦争が始まった。戦闘機がどんどん飛んでいく。おまけのその後は、ベトナム戦争で戦闘機が空を飛ぶ。其れで完全に戦争は続いていると彼は思っていた。

中「人間の覚悟とはすざましい者が有るんだな。」

楢「そう、人間覚悟が出来ていれば、何だって出来る。○野田がそれを証明した。」

中「ソウか、覚悟か。今の俺たち一般社会人は、その覚悟が出来ていないのかもしれんナ」

楢「平和になりすぎて緊張感が無くなった。時代の移り変わりどうにも止まらない。仕方が無い事か。」

この話。非常に考えさせられました。

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自己満足は敵(中西康範士)

かなり以前、中西範士が、剣道日本で京都の立会いを褒められた記事が出た。口頭ガンの術後初めての立会いでの事だったらしい。命がけの生還の後の立会い。お互いに一打突、も出さず、お互いに気攻めの立会いで、終始たらしい。範士ご自身も、無心で立ち会われたと、お話されていたので、その立会いがすばらしいものであったに違いない。

処が、その年の全日本選手権を観戦に日本武道館に出向かれた時、用足しに席を立たれたときに、後ろから、背中をコツコツと叩かれた御仁が有った。小川忠太郎範士その人である。中西範士に取っては、国士舘大学時代の恩師。小川忠太郎範士がとつとつと言われたそうな。

「中西君、人に褒められて、喜んでいるようでは、まだまだですよ。剣道なんてものは、自分で良いと思ったら最後、こんなにつまらないものは無い。自分の不足を、死ぬまで探し続け、埋めていくのが剣道の修行。自分で良いと思ったら終わりですよ」と諭されたらしい。中西範士が、「60を過ぎた俺に説教されるのだから、まいったよ」と苦笑いをされていた。

「でもナ、ありがたい事だよ、恩師と言う物は、何時までも、幾つになっても心に留めておいて下される。あの方を見ていると、自分の未熟をかみ締めさせられる。」と話されていた。

その後、数年たって、京都大会で、中西範士と、京都の、丸田範士が立会いをされたのを拝見できた。その年、京都で、世界大会が模様された年。だと記憶にある。お互いに一打もせず、緊張感溢れる、立会いで有った。

その年、お二人とも剣道九段に昇段された。中西範士がその後語られた。

「あの時、剣日の記事に好い気になり、気持ちが緩んでいたら、今日の自分は無かった。自己満足は、剣道最大の敵だね。」

この言葉が、熊の脳裏をいつも掠めて居ます。

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審判の技法(小沼宏至範士)

剣道ある程度段を持つと、審判に立たされる事が多い。審判の一番重要課題は正しい一本の判定である事は異論が無かろう。しかし、その一本の判定基準は、その人の剣道における稽古の実力以上の審判は出来ないのである。これは肝に銘じて欲しい。

熊が、過去三回世界大会の審判をおうせ遣った時、その講習会の都度、範士に事細かに注意されたりご指導いただいたりした。

その事を皆さんの参考に成ればと思い、書くことにした。

1立ち姿=威厳、風格のある立姿、俗に言うキョウツケの姿勢である。踵を45度につけて姿勢を正す。審判旗は体側に下げ持つ。

この審判旗体側に添えて持つ人が少ない。大抵が斜めに持ち、旗の頭が体の前に出る。体側とは、ズボンの横の縫い目に沿う事。

その為には、旗を持つ両手の親指をズボンに沿わせ、手首を少し内側にひねる。つまり手の甲を前に向けるようにすれば良い。

2移動=審判員は三名心を合わせ必ず試合者が三人の作る三角形の中で試合を行って居なければ成らない。その為には試合者の移動に応じて、試合者の打突の見やすい場所へ移動をしなければ成らない。その時初めの一歩を大きく踏み出して移動を行う。

移動中は、できる限り旗を振らない、体側に置いたまま、移動をし終わったら又、キョウツケの姿勢に戻る。休めの姿勢の人が多い。

気持ちの充実していない審判が良い審判が出来るはずが無い。

3旗の表示=旗は腕と手首と旗が一直線になるように表示する。

1本の表示の場合、旗を45度斜め上に揚げる。その時旗は完全に体側でなく、少し旗を体の前に出しておく、それで自分があげた旗が、赤,白間違いが無いか確かめられる。表示で、手首が曲がり、腕と旗が一直線に成っていない人が多い。親指を下にして手の甲を上に向け、人差し指を旗の棒に沿えると旗と腕が一直線にしやすい。必ず一直線に成るように。

反則の表示の場合も同じ要領で行う。又、止めの表示は腕を曲げないで,真っ直ぐに,上に上げ、右手と左手が必ず平行に成るように。

これは別れの表示の時も同じ、腕は一直線に伸ばし必ず平行を保つ事。引き分けの表示は頭上前方で赤旗を前に旗を交差させる。

有効打突を認めない場合、赤旗をうえにして、体の前方下で、最低三度はすばやく交差させて、表示する。

反則の告知をする場合。片足を前に出し選手に先刻をしている動作をよく見かけるが、必ず足をそろえ、キョツケの姿勢で行う事。

*審判にでる前、鏡で服装、旗の揚げる角度自分の姿を映してみてみること。

*審判にでる時は、体に光物は身につけては成らない。ジャケットの金ボタン。ネクタイピン。腕時計は勿論の事。

*審判にでる前日には必ず試合、審判規則、審判法に目を通し、確認を取る事。

等など、まだまだ細かい点はたくさんありますが、基本的にこれ位の事は、最低限守ってください。

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有声の勢~無声の勢(羽賀忠利範士)

若いうちは、大きな声を腹から出して、気勢良く掛からねばならない。しかし、稽古が出来るに従い、声が潜み、腹から沸きあがるような勢いで攻め立てなければならない。

若いうちに大きなかけ声を掛けることをしっかりやっておかないと、無声の勢には到達できないよ。大きな掛け声を掛けることにより、知らず知らずに気が練れる。勢いが出てくる。

これも上達の段階だね。七段の上~八段くらいになったら、無声の勢の意識して勉強しなさい。

熊はまだ、打突の勝ち鬨大きな声で稽古をしていますが、立ち上がりの攻めは無声を意識して稽古をしています。

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相気をはずす(堀口清範士)

先生にお稽古をお願いして時に、一生懸命に掛かれば掛かるほど、フワーとした真綿に包まれるような気で対応されたことがあり、不思議に思い稽古後、先生にお訊ねしたことがあります。

「先生、我々若い者がガンガン掛かってきてもビクともされませんね。それはどうしてそいうことが出来るのですか。」

「若い人は勢いがあります。だからその勢いにまともに受けていてはこちらが持ちません。だから、相気で外す。そして、その相手の勢いを逆に利用する。」

「相気を外すとは具体的にどのようにするのですか?」

「相手の人と手と手を合わせて、お互いに押してごらん。お互いに力が要ります。これは対です。しかし、その押している一方のの人が力を抜いたとします。そうすると、もう一方の押している人は前のめりになるでしょう。これが外すです。

それを気でやる。気で攻めておいて、対にしておいて、こちらが気を緩める、そうすると相手が飛び出す。其処を捕らえる。要するに、相手を引き出す。これですよ。

ただ、あなた方はまだ若い、だから今はどんどん攻めて攻めて、かかる稽古を積んで置く事です、其れで、強い攻めの気を養う。その強い攻めの気が出来て居なければ、気を緩める事が出来ない。強い気攻めが無いのは、初めから、気が緩んでいるのと同じですからね。これは、有る程度、年が行ってから使うんですよ。

若い内はどんどん掛かる、どんどん攻める。それを確りとやっておく。それが大事です。50代まではどんどん攻める。60代に成ってそれを考えなさい。」とお話を頂きました。

ですから熊はいまだにどんどん攻めて稽古をしています。50代最後の仕上げとして。

相気を外す熊にはまだまだ先の事だと思っています。

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受け流しの妙(中西康範士)

為一堂、中国人が作った総合武道道場の開館式に楢崎範士、中西範士、羽賀範士と、居合道に山崎誉八段に御出で頂いた。

その時講習会を開いた。剣道形小太刀のときである。楢崎先生と中西先生が模範を示され、我々が後をなぞらえる形でやる。その時私の小太刀の形に中々OKが出ない、「七段半の形だ」(当時二度八段審査一次を通過していた)と揶揄される始末。

日ごろから形の稽古はしていた積もりで居たので、正直パニック。何処悪い、がどう可笑しいとは教えられないのだ。

何度も何度もやらされる。勿論先生方も見本を何度も示される。その内、親父、羽賀先生に、お前の形は三段も無いと言われる始末。

焦りました。手に汗等と言う生易しい物ではありません。体中冷汗と脂汗で、ズクズクになる。その内、白熊が熊に言いました。

「音が違う」(何の)「小太刀が太刀にぶつかる音が違う。」私の相手をしていた白熊がそれに気付いた。中西先生がニンマリ。

処がどうしたらその音が出るようになるかが分からない。私達がやると、どうしてもカチンと乾いた音がする。先生方は。カシュンと柔らかな音。それも聞き取れるかどうかの小さい音なのだ。自分たちも鎬で受け流していると思っていたのだが、どうも角度が違う。先生方も鎬で受け流して居られるのだが、その角度が微妙に異なるのだ。それに気付いた。中西範士は三道範士、物凄い形を打たれる。

サスカツーンの宮岡が聞いた。「先生、どの辺で、どうしたら鎬で受け流す事が、出来るのですか」

中西先生「ん~、何処で如何のこうの言うてもやな~、ちょうどええのがちょうどええ、妙は口では言えんのジャ。」

それから必死でした、普段の稽古でも事あるごとに、真剣に形を打っています。今は良い思い出に成っておりますが、10中8~9回はその音で出来る位になりました。マダマダです。その他にも、形での思い出がたくさんあります。理合いにかなった形、奥が深いですよ。

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金を使え(榊原正範士)

富山にいた頃、村雲先生と榊原先生を駅まで迎えに出た。ちょうど5月の京都大会が終わり、入梅の本の少し前のこと、村雲先生が八段受験に失敗して、少し気落ちしていたのであろう。村雲先生は刑務教官で、実家は農家、田んぼをかなりお持ちであった。

三~四月は田おこしで、田んぼの土に足をとられ、足首を痛めておられた。京都が終われば田植えと京都大会を挟み、一番大変なとき。そのお疲れもあったのかもしれない。普段愚痴る事など絶対有り得ない村雲先生が、親友の榊原先生に初めて口説かれた。

「富山の片田舎で相手にも恵まれず、稽古も十分に出来ないから、なかなか八段に通れないですね。」と榊原先生についこぼされた。すると、榊原先生は、「村雲君。金を使いなさい、金を。」すると、村雲先生は、怪訝な顔をされて黙り込んでしまった。

車の中に一瞬嫌な感じの空気が流れたので、運転手の熊は非常に気まずい思いで車の運転をしたことを覚えている。そして、時間が経ち、道場に着き、応接間でお茶を飲んで歓談されていた榊原先生に村雲先生が沈痛な思いの中から重い口を開かれた。高潔な村雲先生にしては忸怩たる思いであったと思います。

「榊原さん、誰にどの位包めばよいのでしょう。どの先生,誰が一番効果がありますか。」と、尋ねた。すると、榊原先生は、顔に怒りをあらわに見せ、「君は何を勘違いしているのだ。もし君がそんなことをしたら、二度と剣道界に顔向けできなくなるぞ。金を使え、ということは、汽車賃と旅館代を使い、君が都会へ出稽古に行けという事だ!!」と、たしなめられた。熊のその席にいたので、一時はどうなることかとひやひやした。

すると、村雲先生が、「アッ、失礼しました。てっきり勘違いをしてしまい、忸怩たる思いでやっと不本意ながら口にしたのです。忘れてください。」と、謝られた。その場はそれで和やかな雰囲気が戻り、その日の稽古は非常に盛り上がったことを覚えている。

しかし、それからが村雲先生の凄い所。同じ金を使うのなら、自分ひとりが出稽古に行っても独りよがりだ。それならばと富山の片田舎に大先生方を招聘すれば、生徒たちと共に学べる。同じ汽車賃を払うのも旅館代を払うのも同じなら、みんなと共に学びたい、と言われて、多くの先生方を富山にお呼びになられた。

榊原正、渡辺敏雄、羽賀忠利、西善延、堀口清、そして、小川忠太郎。一番得をしたのは熊かもしれない。「金を使え」、この言葉は、本当に熊の心の中に「生きた金を使え」として大きく残った。そして熊もまた生きた金を使わせていただき、沢山の先生方にカナダに来ていただいたり、お世話させていただいた。ありがたいことだと感謝している。

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剣先を制す(長島末吉範士九段)

先生がカナダにお見えになられたのは、東京春日にある西山道場の西山進先生とでした。西山先生はその頃、毎年カナダに見えられ、必ず私どもの道場でお稽古を頂きました。

そんなある夏のカナダご旅行の途中、長島先生を伴い、当道場でご指導いただき、長島先生のご紹介頂きました。そして、その折、長島先生にカナダから八段受験を勧められ、その年から八段挑戦が始まりました。

それから、機会あるごとに稽古をつけて頂きましたが、二度目の八段挑戦での京都大会の朝稽古で、真っ先に先生にお願いしたわけですが、熊が打ちに出ようとすると、必ずたたらを踏まされてしまいます。それが不思議でした。

そして、稽古の後、ご挨拶に行きご指導を仰いだ折、次のことを教えられました。「相手の剣先を表裏、裏表と上から軽く押さえ込み剣先を殺す。相手の心が剣先のやり取りに意識が引っかかれば、こちらのもの、その機に討ち取れる。

それと、相手が出ようとしたときに簡単に枕(起こり)を押さえることが出来る。研究しなさい。」とのお教えでした。

稽古中、たたらを踏まされた要因がそこにありました。その後、警視庁で朝稽古の折、梯先生にお願いをすることがありました。さすが警視庁の師弟。梯先生も同じように、剣先が表裏、裏表、と押さえ込んでこられます。全く長島先生と同じ手法で、散々な目に合わされてしまいました。

それ以後、熊も工夫をして、取り入れて見ますが、まだ未熟で逆に自分の心が剣先を押されることに意識が行き、打たれてしまいます。でも、どうかすると無意識にそれが出来る状態のときは、うまく機会に出ることが少し出来るようになりました。

お相手の出端も制することが少し出来るようになってきました。無意識にお相手の剣先を押さえ込むことが出来るまで、習慣をつけなければならないと工夫を続けています。本年(平成17年)京都大会の梯:山田、両先生の立会、梯先生の剣先の使い方、田伐正人氏のサイト、クラブオブ剣道の京都の立会に見ることが出来ます。興味のある方は、是非ご覧になってください。

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書を読め(榊原正範士)

熊が26歳で剣道を再開して榊原先生に初の年賀状を送った。あまりにも見事(逆)な分(支離滅裂)、書体(ミミズの喧嘩状態)に驚かれたのであろう、次回の稽古会で言われたことが、いまだに心に大きな楔となり生き続けている言葉がある。

「熊、書を読め。剣道バカにはなるな。」

その頃、熊は剣道にはまっていた、というより、焦りに近い感情で稽古をしていたのかもしれない。高校時代の後輩は、大学卒業で五段を受理していた。熊は高校生のときのまま二段。早く追いつこうと毎晩仕事の後、稽古に出歩いた。

凌雲館(村雲先生)、錬成館(臼井先生)、県営武道館(板橋先生)、それに月曜休みだったので、県警機動隊にも出かけた。

稽古が面白くて仕方がなかった。当然、腕前はそれなりに進歩する。たしかにじぶんでも上達の手応えはあったのだが、いかんせん無学文盲。それを心配してのお言葉であったのであろう。

なにしろ、熊の学生としての成績表は総天然色、赤い数字並び、かろうじて体育だけ黒い字、という有様。大体、学校における授業中は就寝時間と勘違いしていた学生生活。成績のよかろうはずがない。いまだに、どうして卒業させて頂いたのか不思議である。

まあ、そんなわけで、榊原先生が心配されたのであろう。言葉静かに諭された。

「熊、剣道はただ強いだけではだめなんだ。教養がなく、下品で何ぼ打ち合いが強くてもだめ。剣風にその人の人格が出る。だから書を読みなさい。」

(どんな本を読んだらいいのでしょう。)

「何でもよい、まず、活字に慣れろ。書を読むことにより人の考え方が分かる。」

(週刊誌でもいいのですか。)

「何でもよい。週刊誌でも小説でも本を読むことが楽しくなるまで読め。」と、諭されました。

ですから、本は今もって、手当たりしだい読み漁っています。しかし、その背景にはもう一つ大きな存在がありました。カナダに毎年来ていただいた羽賀忠利範士、必ず10冊以上の本を日本から持参され、昼の間、読書、参考になる部分を書き抜きそのお話を講演会などに役立たされておられる。そのお姿を目のあたりにしてきたこと。

人前でお話をされてでも、きちっと時間内で話をまとめられること。話に無駄がなく、非常に分かりやすく話される。また、お二人とも素晴らしい文を書かれる。

熊自身も難解な剣道書や参考書なども目を通しても、ある程度理解が出来るまでになり、書を読むことの大切さをしみじみと教えていただきました。知識の宝庫、本は宝の山です。死ぬまで勉強です。

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心の弱さ(中村毅教士八段)

今から何年前のことに成るだろうか。先生との出会いは熊が六段の頃、アメリカのシアトルで巡回指導に見えられた先生に、ぼこぼこに打たれ。

その後、七段挑戦で日本を武者修行中、当時、東京の春日に有った、警視庁武道館へ稽古を頂に行った頃からだからかれこれ18~9年前の事になります。

二人の息子がその後警視庁でご指導をいただいた時に大変お世話になり、我が子のように接していただき、手厚いご指導を頂き、事有るごとに親交を深め合ってきました。

そんな折、武道学園のデモンストレーションがバンクーバーで行われ、其処の師範をしていた先生から、一行を頼むとの手紙を頂いた。デモの、会場探し、チラシの配布、宣伝。全てを手配して、彼らのデモは成功裏に終える事が出来た。

その年の秋、居合道七段の審査を受けに日本へ帰国をしたとき、是非、そのときお世話になった、丈道、剣道の方々から、食事会に招待したいと、お誘いを受けた。

その七段審査、熊は新しい日本刀を仕込んでいた。日本刀は一度国外へ持ち出すと、所持許可書が無効になり。帰国の際、検閲で取り調べ、新たな所持許可証の申請。(その場では出来ない)など色々複雑で、手続きが全て終わらないと刀を持ち歩けない。

六段受験のときそれで苦労をさせられたので、将来息子に譲る予備の刀として、一振り注文していた。その刀で受審をしたが。3~4日間ではその刀に慣れる筈も無く見事に失敗。

その前に居合いの審査を受ける話はしてあったので、「審査は如何でした?」と、聞かれ(いや~、日本刀を新しく仕込んだもので受けたので、バランスが上手く掴めず、不本意な審査になりました。)と申し上げた所、「はあ~お刀のせいですか?」とやんわりと諭されました。

瞬間、ドカッと脳天を割られたかと思える位、心に衝撃を受けました。そのときほど自分の未熟さも省みず、刀のせいにしたしまった自分の馬鹿さ愚かさを知り情けないやらはずかしいやら。・・・・・・

言葉は柔らかいが、鋭く心をえぐる慈愛に満ちたそのご教導。彼ら専門家はいかに自分に厳しく道への精進を続けている物なのか、垣間見る思いをし、ますます彼への信頼を深く心に刻んだしだいです。すばらしい剣兄を亡くし、慙愧に耐えません。

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切れる剣道(羽賀忠利範士)

親父、羽賀忠利の事を少なからず知る人は、切る剣道、切れる剣道と言う事に少なからず興味をお持ちになったことと思う。

剣道日本の誌上でも発表された事が在るので、ご記憶の方も多いと思う。熊自身がこの事に触れて書くのは、未熟ゆえに、少しはばかられる。

しかし皆様の失笑を覚悟の上で書かないと、話が前に進まないので、間違いがあれば親父が叱責するであろうから、それは覚悟の上(慣れてしまってる、いかんな~)なので、あえて恥をかく覚悟を決めて、書くことにする。

切る、と言う言葉で皆様は、すぐ人殺し、殺人剣をを連想されて、あまり良い心象をもたれないかも知れない。しかし、剣道と言うからには、剣道の剣=剣(ツルギ)=刀=竹刀であるはずであるから、剣が=竹刀であるとするならば、竹刀操作も出来るだけ。刀(剣)の操作に近付ける必要であるという考え方なのである。

親父が言いたい切ると言う事は、何もぶった切る、殺す、殺人剣などの殺伐としたものでなく、正しい刃筋と、手の内の冴え、のことを言わんとしている訳でありますので、くれぐれも誤解のなきようにお願いいたします。

私も未熟ながら居合いも勉強し、カビの生えた錬士六段を保持しています。ですから一応刀の扱いは一通り学ばせて頂いた。親父が先ず一番に言う事は、刃筋を通す切り方(打ち方)をする為には、正しい刀の持ち方をし、竹刀でも同じでなければならないということを力説しているわけです。

切れる正しい刀の持ち方と言うのは、刀が振られ物体にあたる入角と、刀の落ちる角度、物体を切り抜け出る角度が、すべて同じ角度に維持されなくてはならないと言うことなのです。

その為には、右手と左手が同じ角度で刀を持ち、同じ角度を維持しながら、同じ力である程度のスピードを持ち、上下(斜め、横)運動をしなければ、刀(竹刀)は刃筋が通らず、物が切れない。

鉄砲の弾はそれ自体、殺傷能力も何も無いが、火薬が爆発する事による力で、スピードが生まれ、物体を貫通する力が生ずるわけで、それが剣道で言うところの冴えに繋がる訳である。

であるから、いくら刃筋が正しく振られたとしても、ある程度のスピードは不可欠なのである。そのスピードは、肩、肘。手首、指などの関節に付随する筋肉の柔らかな伸縮により、刀(竹刀)を振ると言う力で生み出される訳で、右手(押し手)、左手(切り手、引き手)のテコの応用も大事な要素となる。

では刀の刃筋はどのようにして、作り出すかと言えば、刀の柄の形状楕円形の横の凸凹部分を手のひらと指の付け根にあて、反対側の窪みに指先を入れるようにして、柄の楕円形の上部に手のひらの小指球を乗せるように持てば、手の甲が床から90度の角度で持てるはずである。両手の甲の角度が床から90度を保ち左右の手を同じ方向に振れば、必然的に刃筋が立つ事に成る。

要領だけを記すと、左右の手の角度が同じになる事。刀を振るとき刀が手の内で滑らない事。(茶巾絞りを誤解なきように)打つ時に絞らない(打つときに絞ると手の内が変わり刀が手のひらの中で滑るために、刃筋が狂う)絞った状態で刀を持っていると言う事。

この事が理解できて、左手の切り手(引き手)右手の押し手、(つまりテコの応用)が理解できれば竹刀で新聞紙くらいは切れます。

新聞は紙を梳くときの作用で、紙の繊維が横並びに成るので、新聞紙の端にギザギザのある方向から切ると切りやすい。腕が上がればギザギザの無いほうからでも切れるようになります。

切り方は、新聞紙の上部両端を軽く左右に引くようにして、ピンと張り、誰かに持ってもらい、前に吊り下げてもらうか、糸で吊るした洗濯ハサミで、新聞紙の両コーナーを挟み吊り下げる。それを切る練習をしてください。慣れれば段違いで、篭手面も切れますよ。

大振りをする必要は在りません。通常の篭手面の大きさで十分です。ただし、指し面的竹刀操作では絶対切れませんから念のため。

新聞紙が切れると言う事は本当に糸を引いたように、上から下まで一直線に切れます。紙の下の方が、デルタ状につぶれたり、破けたのは切れたとは申せません。

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八段審査(井上義彦範士)

井上範士の話が出たので、ついでに、もう一つご披露します。少し長くなるかも知れませんが、お付き合いください。

私が初めて八段審査を東京で受けたとき、先生は私の審査会場の審査員をしておられました。その日の出来は、自分でもある程度納得のいく立会いが出来たと思っていたのですが、発表を見ると番号がありません。

見事1次審査で不合格。何がなんだか訳が解らずに居ました。一人目の立会いは、応じ胴の応酬で、二本とって、一本返されました。

二人目の立会いはほぼ完全に使いました。籠手、面、胴、面と完璧の出来だと思ったのですが、結果が出ていません。不思議でした。審査を見ていた息子から、「あれで落ちたら仕方が無いよ」と変な慰められ方をしましたが納得出来ません。

何か悪いところがあったのだろう、誰かにアドバイスを聞きたいと思っている所に,一次審査を終えられた(2次審査は審査員が変わる)井上先生が出てこられてました。

ご挨拶をし、「駄目でした」と申し上げた所、「右手だよ右手、右手が竹刀を握ったり、開いたりしている。手の内がパクパクしていると相手が打って来た時、瞬間的に竹刀を握り締めてしまう、すると手元が浮きやすく手の内が固くなってしまうい冴えたうちが出来ない。それと、右籠手とつばの間が開き過ぎている。少なくとも指1~2本程度にして置きなさい。」と、ご指導頂いたのですが、これを聞いたとき、心底驚きました。

先ず初めは、審査員は何と細かいところまで見ているのか、二つ目は、八段審査とは、そんなに厳しく採点されるものなのか。

そして,合格する為には、一点の曇りも無く完璧でなくてはならない。一本も打たれてはいけない。今更の様に、すごいところに来てしまったなと、改めて実感せざるを得ませんでした。

カナダに帰り、反省を元に原因を探すべく色々工夫をしてみました。二人の息子に頼みパクパク度をチェックしてもらい、柄皮を短くして鍔に右手を密着させ、意識をそこにおきパクパクを出ないようにもして見ました。

しかし、それでは所詮付け焼刃、直ろうはずがありません。それどころか左手までパクパクしていることが判明。大変ショックを受けました。そこで家内に頼み、ビデオで稽古の一日を手元を中心に映してもらったのです。

それを稽古後検証してみて、判明したことがあります。稽古始めにパクパクが多い事、15~20分するとパクパクの回数が減ることに気づきました。原因を考えました。

カナダでは日本のように道具屋がありません。籠手の修理は全て自分でやります。稽古が好きなので籠手の手の内が長持ちするように厚手の鹿革を用いて居た事。

もう一つは、親子三人が稽古をしているので、道具の長持ちを考えて家に乾燥部屋をこしらえ、で乾燥させて居るために籠手の手の内がカチカチに乾燥していたこと。

稽古を始めて15~20分経つと一汗かいて、手の内が汗で濡れて革がやわらかくなる。そうするとパクパクが出にくい。そのことに、気づいたのです。八段の立会いも2分。会場では人も多く、場所的にも、汗をかくほどの準備運動は出来ません。

手の内の革をやわらかくする時間が無い。恐ろしいことに、長年の習性が悪い癖を作り出して居たのです。しかし、原因がわかった以上手を打たなければなりません。試合用の籠手は日本に送り、専門家に手の内を変えてもらい別の部屋に保管して、自然乾燥をするようにして、、稽古の籠手も、稽古前にある程度の湿り気を与えて手の内をやわらかくしてから、稽古をするようにしました。

おかげさまで、次回の審査は1次を通過することが出来ました。しかし2次は強い人の集まりです。そこを抜けるのは並大抵ではありません。まだまだ、修行が続いています。

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人の長所短所(井上義彦範士)

平成11年5月、京都大会、毎年泊まる砺波詰め所は、満員で宿泊を断られた。仕方なく京都に向かい、羽賀先生の定宿である平安荘に転がり込んだ。平安荘は今は無いが、武徳殿から歩いて3分。井上義彦範士もお泊りで、よい話が聞けた。

長所は人の努力の結晶である。短所は人の不注意の結晶である。だから人の長所の真似はし難い。しかし短所の不注意の結晶は真似易い。長所を見抜いて修行していく人の心が感動を呼ぶ。

 

通常行われる、京都大会の朝稽古の後に、国士舘大学の朝稽古のも参加した。西善延範士九段が国士舘卒と言うことで招かれ、その弟子の井上範士に声が掛かり、私も誘われた。勿論、私は国士舘出身では無いが、師匠の村雲、羽賀両先生が国士舘である。誰に遠慮がいるものか、稽古はしたものの勝ちである。稽古後宿に帰り、たまたま、井上先生と二人きりになった。

「熊さんは静岡の人の一年分の稽古を京都でやってしまうね。何処でそんなに稽古が好きになったの?」

(解りませんがしないの音を聞かないと、落ち着かないんですよ、一種の中毒かも知れません)

「そんな中毒なら犯されたほうがいいよ、カナダでは何日くらい稽古しているの」

(やる気になれば毎日出来ますが、週5日位でしょうか)

「君は日本人以上に稽古をしている、その結果が出ているよ」

(いえ、トンでもありません、未熟な稽古ですみません)

「静岡は七段に24名挑戦して、4名が合格した。6%の合格率。八段は7年前に合格者が出たきり、今年こそ誰かが受かってくれればいいのだが・・・・。稽古をしないで受けに来る人が多いので困る。まるで岸壁の母だよ。」

(岸壁の母?とは何ですか?)

「もしやもしやで、受けに来る」失礼だが、声を上げて笑ってしまった。

先生も笑っておられた。笑ってごまかしたが、自分のことを言われたのかと、冷汗が出た。

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背中の壁(楢崎正彦範士九段)

楢崎範士との出会いは、七段受験の帰郷の際、富山での稽古会が始めてでした。その後、トロントの世界大会で再開し、それ以後、何かに付けてお声をかけていただくように成りました。

富山での稽古会の折、私の先輩に物凄く強い方居られ、彼の過去の試合成績を見ても、抜群の成績を残して居られます。その方が、いとも簡単にあしらわれているのに、驚愕をしました。

そのときの思い出を,ある機会にお話をして、熊が(あれだけ強い方が何故八段が通らないのか不思議です)と申しますと、「確かに彼は叩き合いは強いし、上手いし、気迫も抜群で、集中力もあるが、彼の構えには背中に壁がない

だから構えに品がなく、本当の強さが出てこない。本当の強さと言うものは、背中が一枚岩のように、磐石でビシーとしていなければ出てこない。後姿に品位と強さが出てくる。それが出ないと八段は無理。」と言われたことがあり、確かに、強い一流の先生方は、後姿に隙がない。

ビシーとした壁がある。小川先生が何時も言われていた。骨盤の上に背骨がまっすぐに乗り、左足がピーンと軽く張った状態で、臍下丹田に力がみなぎっている。そんな構えが出来て初めて本当の強さが出てくるものだよ。と教えていただきました。自分の後姿はなかなか自分では分かりません。せいぜい気を付けて見たい物です。

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