羽賀範士との付き合いは彼是30年近くになります。それだけ多くの事を学ばせて頂いております。そこで前書きは別にして、本題のみ書きたいと思います。剣道における、見切りとは、たくさんの要素があり、一言で片付けるには難しいものがあります。
先ずひとつは、間、この間には、距離的間と時間的間があります。これは、空間距離(間)を移動する時間(間)と考えてください。
たとえば、剣道における距離的間(空間距離)は、相手が打突動作を起こした位置から、打突部位に竹刀が当たるまでの距離。それに費やした時間を移動時間と考えられる訳です。
そこで、人間には個人差は在りますが、多かれ少なかれ、反射神経があります。感の良いと言われる人は、俗にこの反射神経が良い人のことを言います。剣道において、初心者の間は、この感の良い人が上達が早い。
ところが、上達するに従って、この反射神経が邪魔になる。反射神経が良いと言う事は、相手の動作に敏感に反応できると言う利点は在りますが、剣道ではこれが命取りになる。例えば、相手が何か動きを起こしたとき、敏感に反応し過ぎると、「ハッ」と驚いたのと同じ事に成りうる訳です。不必要な反応は隙を作るだけ。
そこで、本当の見切りとは、相手が打突動作を起こしたとき、自分の体(打突部位)に当たるまでは、安全な分けですから、何処まで冷静に相手の打突を見極められるか、そこが一番大切な要素になるわけです。もう一度言います。
「相手の打突動作を、何処まで冷静に見て判断し、対処出来るか」これが本当の見切りの重要なポイントなのです。だからこそ、不動心、だとか平常心だとか、冷静に判断できる事柄が剣道では重要視されている訳です。
相手の打突が当たるまでは安全なのです。では、如何したらその見切りが、冷静に判断できるように成るか。それは、「打たれなさい」打たれる覚悟が出来て、実際相手の打突を打たれるまで、じっくり見極める覚悟が出来れば、自ずと、相手の打突動作の全てが見えて来るわけで、どんな名人でも打とうとする際は必ず力が入り隙が出来る。
それを冷静に見抜く判断が出来るように、打たれることを覚悟で、冷静に相手の打突を見極める努力を怠っては行けない。と言われて居ります。昔から「器用(感の良い人)は大成せず」打たれることに腹を括った人が大成する。
空間距離、移動時間を冷静に見極めて、対処する。過敏に反応をしてはいけない。腹を括れ。それが見切りの原点だ。といつも言われ続けています。まだまだ熊は未熟です。
先生に初めてお会いしたのは、七段チャレンジの武者修行中、日本武道館での全剣連合同稽古会の折でした、掛からせて頂いたのですが,まったく触る事も触れる事も出来ず、その強さに驚愕したものです。
その後、アメリカのシアトルに巡回指導に見えられた時、心臓を悪くされておられるとかで、ピースメーカーを入れておられて、稽古はされないと言われていたのですが、一緒に見えておられた、梯先生と私の稽古を見られて、心を少し動かされて様で、熊が出来れば是非お稽古をと、おねだりをした事もあり、道具があれば、明日稽古をしても良いと言われ、私の道具で良ければ明日お持ちしますと約束して、片道3時間をバンクーバーまで帰り、翌日の午後、仕事を早く切り上げて、シアトルまで3時間走りました。
その後、国際剣連の審判講習会や、バンクーバーでの審判講習会を、設営、運営を、お手伝いした事や、熊の稽古好きを気に入られてか、そのとき以来、非常に懇意にして頂き、「審判の事」「剣道形の事」理合の事」「稽古の事」は勿論、人生の処世術に至るまで、射竦められる様な、鋭く光る眼光の、すざましい気迫の中お教えを頂きました。先生の悲報をバンクーバーで聞き、思わず飛行機に乗り、何とかお通夜に参列させて頂く事も出来ました。
想い出がありすぎて、何から書いて良いやら、悩みましたが、トロントの世界大会の折の審判講習会で、立ち姿、歩き方、旗の持ち方、揚げ方、指示法、等々徹底的に直されました。その時お教え頂いた、審判の心構えを、ご披露させて頂きます。
君たちは、段が上だとか、先生だからという感覚で、審判をしているだろうが、とんでもない話です。これが真剣なら人の命を預かっているわけです。あなたの旗の上げ下げで、人の生死が決まる。
また、試合をするものにとって,指し違いで負けた場合、それでその人の人生までもが狂ってしまうことがある。特に警察剣道界では試合の勝ち負けで判断され、職を失う事すらある。
将来を嘱望されて、一生を剣道に懸けようと夢を持ち警察剣道界に入ってきて、命がけの稽古を続けて、やっと掴んだ試合のチャンスに、審判の間違いで、人生をひっくり返されたら、その人はどう成ると思うか。
だからたとえそれが子供の試合であっても,仇やおろそかに、審判をしてはいけない。試合者が命がけなら、審判も命がけでやりなさい。その為には日頃から一生懸命に選手以上に稽古をして,眼を明らかにしておきなさい。
試合者が絶対納得の出来る、審判でなくては成りません。審判の姿勢態度が威厳に満ちたものでなくてはなりません。審判をするときは試合者以上の気迫で臨みなさい。
これらを実行することは大変難しい事ですが、自分なりに一生懸命勉強させていただいた事が、三度の世界大会の審判を仰せつかり、大事な場面での審判に起用された事に繋がったのではないでしょうか。
佐藤博信範士がカナダにご指導に見えられた時、奥様もご一緒でした。それはもう、モダンで、品が良く、お綺麗な方で、さすがハンサムな先生に相応しいお方と心に映りました。
当時、カナダの剣道界は、日本の伝統を無視するかの如き背景がありました。彼らは日本生まれでカナダ育ち、もしくはカナダ生まれでカナダ育ち、多感な少年時代を、戦争という特殊な環境に迫害を受けた経験がある人たちが多く居ました。
戦時中日本に帰還して居た頃は日本で敵国スパイなどとののしられ、暴力を振るわれ、カナダに帰国したらしたでジャップと罵られ,暴力の餌食の対象に成っていたのです。
事実、日本人で有りながら、中国人だと偽って暮らした人々が居る位です。自分の母国にも裏切られ、自分の育った国にも裏切られ、大変特殊な苛めの世界を生きてきた。そんな経験が、彼らに及ぼした影響は計り知れないものがあります。
おまけに日本は戦争に負けた。子供心に日本の剣道における、精神性はヤヤもすると彼らには諧謔的なものにしか映っていなかったのかも知れません。ですから、体育館は、あくまで、スポーツジム、道場とは程遠い感覚で、有ったのでしょう。ましてや、神殿に礼、等とは、クリスチャン?感覚からすれば、臍茶物だったに違いありません。
ですから、道場へ靴履きのまま入る事になんら不自然さを持たない人たちが多く居ました。そんな状況のある稽古会で、カナダ剣道界の中心人物が、靴履きのまま、道場に入ってきたのです。勿論佐藤範士はそれをお許しに成る訳がありません。
「仮にもここは道場です。靴を脱ぎなさい」とたしなめられました。その、一件があり、側で見学されていた範士の奥方は、稽古が始まると、ピシーッと正座をされて、1時間30分微動だにもされづ、見学をなさっておられました。
かなりタイトな、おみあし足のラインが出そうなパンツ姿でしたが、見ている私が足が痺れないか、やきもきしたくらいです。その光景に刺激を受けたわけでは無いのでしょうが、奥様のお世話をしていた、我が女房殿も、ご一緒に、お付き合いさせられたような形になりました。
稽古後、多分足が痺れて立てないのでは、という私の心配をよそに、颯爽と立って、歩いていかれました。稽古後の話の席でそのことが話題になり、お聞きした所、居合道を学ばれて居られ、正座は何でも無いとのお話。愚妻も居合いをかじっておりましたので、その場の正座は事なきを得たようで御座います。
指導者の妻として、凛とされたそのお姿に、深い感銘を受け、愚妻が、すごくあこがれて、あの方のように、品良く、美しく、ふけて行きたいと、努力をしておりました。今は懐かしい思い出です。
しかし、今でも其処の道場は、靴履きのまま入る奴らがいる。本当に立派な剣道専用の道場であるにもかかわらず、そんな基本的なことをやかましく、熊が言い続けて来たために、疎まれ、嫌われて、熊の評判がすこぶる悪い。
熊にとって見れば、靴を脱がないのは、単に鈍らなだけ。靴を履いたまま道場に出入りする事は、自分を、自分でいやしめている事の成るのだが、文化の違いとは、それを理解させない大きな壁があるようです。
しかし、武士の妻、を垣間見る、この一件で、範士のあの絶対的強さの影には、このご内室の内助の功が如何ばかりかと、察せざるを得ませんでした。
熊が六段の審査の前、カナダから手紙で、範士に審査の心構え、留意点を尋ねました。範士のお手紙にはこう書かれていました。
1.端正なる容姿。2.充実した気勢。3.適正なる間合い。そして剣道は打ち合いでなく、攻め合いである。これだけのお手紙でした。
短いお手紙でしたが、素晴らしいの一言です。実際の審査ではこの教訓を下記の如く留意して挑みました。
1.端正なる容姿=稽古着は色あせの無い、洗濯したてのものを、背中が丸くならないように着ました。袴は、襞のきちっとついた厚手の綿ものを2~3度佩き慣らして、硬さをとり、前下がりに佩きました。面紐は結び目より40CMに切りそろえ、道具は試合用の物を使いました。身だしなみにはこれだけの事を気をつけました。姿勢は稽古の中でしか作れません。常に姿勢と構えに気を配り日ごろから、稽古していました。
2.充実した気勢=はその時点では良く解りませんでしたので、当日審査会場に入る前から気合を高めていました。立ち上がって数秒間は力をためて、腹からだし大きな声を出したら、勇気がわいて来ました。言葉が良くありませんが、気分は喧嘩腰で挑みました。
3.適正なる間合い=間合いは近く成らない様に、、又、あわてて打ちを出さないように、剣先が触れるか触れないかの間合いを堅持して、技を出すときは、其処から思い切りせめて、打ち出しました。
打ち合いでなく、攻め合いである事を肝に銘じ、自分の打ちたい気持ちを抑えて、相手に技を出させるように仕向けました。
以上の教えは、今も常日頃、心に留めて稽古をしています。
余談
丁度、審査の前日、富山の板橋範士と食事の帰り、範士が、熊に「無駄打ちをするなよ」と言われたので、(一本に成る打ちは、何本出しても良いのですね。)とお聞きしたら、「そう、一本に成るうちだけを打つ。」「剣道は野球と違い、ヒットが無い、ホームランか、三振かだけだ。」「ヒットは何本打っても、ダメ、ホームランだけ打つのだ。」と諭されました。一本に成らない打ちは全て無駄打ちです。
私の手元には榊原範士の著書、「求める味」手書きのコピーがあります。、本にもなって販売されています。素晴らしい本です。読んでみて下さい。
中西先生が、バンクーバーに来られたのは、香港出身の剣士、朱先生が、カナダに移住され、その伝で、お見えになり、お稽古して頂いたのが、きっかけで、そのとき、「稽古が出来ている、八段目指しなさい」と言われたのが、きっかけで、単細胞の熊は、おだてに舞い上がり、その気に成ってしまいました。
先生が言われるに「八段目指して、そろそろ京都大会にも顔を見せ、先生方に顔を覚えてもらう努力をしなさい。」当時の熊は、仕事柄、春日本に行く事は非常に難しく、悩んだ挙句、仕事(商売)を替え、日本に公然と行けて、全国を回れる輸出の仕事を始めました。そして、出来る限り武者修行をしようと、心に決めました。
先生とは、先生の勤めて居られた、会社の専務さんの息子さんや、社長夫妻、その息子さんがカナダに見えられたときに、お世話した関係で、個人的にも信頼され、非常に可愛がって頂きました、
その後、三度カナダに来て頂きご指導いただきました。そんなある秋の初めての八段審査前の事。九州小倉の展示会の後、帰り道、広島で、朝稽古に出させて頂きました。
そのとき、係りの先生が、「七段以上の先生は基立ちにお座りください。」と言われたので、一番下に座らせていただき面をつけました。
そのとき熊は面紐を天から取っていたために、着装に手間取り、立った時には、かなりの人が前に並ばれてしまい、仕方なく稽古を始めました。そうこうしている内、お相手も強い方ばかりでしたので、熱が入り、時間のたつのも忘れ、一心不乱に稽古をしていたとき。後ろから、怒鳴りつけられました。
「何時まで基に立っているか。」熊はあわてて下に下がり、熊本範士、大越先生に掛からせていただいたのですが、残り時間もわずか、心が焦っていたために、散々な結果で、自分を見失っていました。
稽古後、中西範士の家に帰り朝食を頂いて居た時。「審査前だから、言わずに置こうと思ったが、お前のために言う、八段も受けようとする者が、同格のものと稽古してどれだけの修行になる。熊本君は50代の範士だ。そう云う力のある先生に稽古をお願いしないで、何為の武者修行か、お前は慢心しておる。そんな事で、八段が受かるか」と怒涛のようなお叱りを受けました。
側に居られた中西夫人が、あまりの剣幕に、オロオロされる位に激しいお叱りです。先生は喉頭がんを患われて居られ、術後、お声が十分に出ません。その傷みを押し殺してまで、大きな声を上げられ叱り飛ばされました。
何故、稽古では下から掛かっていかなかったか、下から掛かるのが当然という事くらいは知っていたはず、不覚!油断!軽率!まことに慙愧の念に耐えない思い出一杯でした。心のどこかに思い上がりが有ったのでしょうか、七段以上は基立ちと言われ、ついその気に成った事が悔やまれます。
先生のお宅をお暇して、新幹線にのり、先生の熱き心に、嬉しさのあまり、体が震えていました。50を過ぎた男に心から叱ってくれた。黙って見放されていたら、気がつかないまま居たら、恐らく熊は道を誤って、慢心していたわけでは有りませんが、油断をしていたことは事実。道を外していたことでしょう。
その時の八段審査は物の見事に一次で審査で、落ちました。しかし、お叱りを受けた稽古会で、私に下から掛かって来られていた、広島のF原氏は見事に八段合格されていました。このお叱りは心の底から有り難かった。自分の事をここまで、思ってくれてた先生の熱き心に、涙が止まりませんでした。
榊原範士は第一回全日本選手権者。本来、榊原先生の事を真っ先に書かねば成らないのですが、思い着くまま書き出した為。順不同に成ってしまいました。
範士との出会いは、凌雲館の村雲先生が、富山刑務所矯正教官として職を得ておられ。榊原先生が中部管区矯正教官として、3ヶ月に一度、富山に指導に見えておられ。熊が大人になり剣道を再開して、初めて他県の先生にご指導仰いだのが先生で、そのときが始まりで。現在の熊の剣道技術の母体が先生のご指導に寄る物で、その影響は計り知る事が出来ません。
話が少し飛びますが、熊にはその後、ご指導頂く事になる。三人の尊敬する先生が居ました。一人は榊原先生、颯爽とした剣風、正確無比な技前は、憧れの的でした。次は羽賀忠利先生、造詣の深い剣理と、上品な剣風、踊りでも見るような軽やかな足裁き。完全に惚れ込みました。それと、西善延先生。すべての物を飲み込んで押し潰して熨してしまうような磐石の強さ。このお三方の剣道をミックスして、自分の剣風にして、物に出来たらと欲張って居りますが、それは死んでも不可能でしょう。
御三方には、今日までもご指導を得ておりますが。頭の中から先生方の剣風だけは、脳裏に焼き付けて稽古をしています。さて本題に戻ります。ある日の稽古が終わり、先生に呼ばれました。「熊、お前の刀(竹刀)を見せなさい。」熊は恐る恐る前に出しました。先生は熊の竹刀を持たれ、「メイトウだな。」と一言、言われました。
日頃から、お口の悪い先生の事、こちらも、それを察知して、(迷う方のメイトウでしょう。)「そうだ。」竹刀が良く割れるものですから、後家で組み合わせて、居ましたので、バランスも悪く使い辛い物でした。
「武士はな、飯を食わずとも、刀と鎧はいい物を買った物だ」「飯が食えぬほど、生活が苦しいわけもあるまい」(ハイ、でも竹刀が直ぐ割れるものですから)「それはナ、手の内が悪いからだ、軽くてペラペラの竹刀で、ピシリ、ピシリ打って竹が割れないくらいになりなさい。」「お前の打ちは鈍痛がする」「それでは切れていないぞ」と諭されました。
鈍痛のする打ち?ショックでした。村雲師匠にその事を言い、何か良い方策がないか聞きました。当時、未だ竹で作った三尺の物差しが有りました。師匠はそれを使い,テコの応用で、押して、引き手(切り手)を毎日やりなさいと、教えてくれました。薄っぺらな三尺の竹指しが横ブレしないで、真っ直ぐに振れるようにと、お蔭様で、少しは手の内が解り掛けてきました。
しかし、カナダでは、中々名刀を入手する事が難しく、ついつい、後家を組みますが、竹を合わせて削り、調子を整えて使うようにしています。榊原先生の想い出はつきません。後でドンドン出てきます。
佐藤先生がカナダにお見えに成られたのは、明治村の八段大会3度目の優勝をされて間もなくの頃でした。
私はその頃カナダから六段を受け、一発で通り、稽古相手も居ない者ですから、少し慢心していた頃の事と思います。稽古をお願いして、その強さに圧倒されました。
当たり前といえば当たり前ですが、熊如きイナカッペが如何こうできるお相手ではありません。しかし、せっかくの機会、約一週間。毎日毎日、必死にお願いして、下手が無理をした物ですから、ぎっくり腰になってしまいました。
とにかく、何処を如何ようにしようとまったく手も足も出ない。触る事すら、触れることすら出来ませんでした。世の中にはすごい人が居るものです。当時、私の友人がビデオを持ち込み撮影してくれていましたので、今でも時々見る事がありますが。熊の右手の固いこと硬い事。あれでは絶対ぎっくり腰になること請け合い。自分で見ても解ります。
ただ打ちたい一心で、ばたばた手打ちで、足掻いているだけで、みっともない事この上有りません。この事がきっかけで、誰か良い師匠に、付かなければ成らないと、思い立ちました。
そのときに先生の右手の柔らかさ、盗み撮りして、真似て見ましたが、中々そう簡単には行きません。
そこでお聞きした所、中島吾郎蔵範士九段は、「打つ太刀は返すたち、返す太刀は打つ太刀」だと。教えられたとお聞きしました。
それと、今ひとつ先生の剣先が柔らかく、全然ある様で、無いようで、無い様で、しっかりある。いつも中心を攻め煽られて息も絶え絶えになりました。そこで、お聞きした所、「浮木」について、ご説明受けました。
水に浮く木辺は右を押さえれば、左が浮き、するりと抜けてしまう。左を押せば、右にするりと抜けてしまう。剣先も同じで、相手が剣先を押さえてきたら、逆らわないで、するりと抜けて中心に戻る。
そうする事で自分の剣先が何時でも相手の中心のあり、攻めが容易になり、気持ちがそこで引っかからない。気にならない。それを、相手が押してきた剣先を押し返えそうとすると、そこに気持ちが囚われ、心の自由を失う結果になる。とお教え頂きました。
それ以来私は、相手の剣先は意識せず、逆らわず、を念頭に、置いて稽古をしています。又、竹刀をチャかチャ音を立てたり、張ったりは、戒めています、竹刀が真剣ならカチャカチャやって、刃こぼれした、した刀で、勝てるわけが、無いと思うからです。自分の命を守る刀、出切る限り、鋭利なままで、置いておく方が、良いに決まってますから。
小川先生の事を書くのは熊如きには恐れ多い事です。実は熊の剣道感(信念)のバックボーンが小川先生。崇拝にも近い感覚であがめています。先生との出会いは、凌雲館でした、その当時、先生のお話はレベルが高過ぎて、理解しがたいものでした。そのすばらしいお話の中で、幾つかの事が頭に焼きついています。その一つが、安心立命の構え。
講話の中、三角矩の構えについて説明がありました。腹剣先目が二等辺三角形に成る。その構えが安心立命の構えだとおっしゃいました。
熊は、恐れも知らず、馬鹿ですから、先生にお尋ねしました。(先生、安心立命とは如何なる意味ですか?)「安心して命を守れる事」小川先生は、講演のときはゆっくりとはですが重みの有るお声で。とつとつと話されます。しかし質問の後のお答えが、ポツン、と一言だけ。一切説明も無ければ、何も無い。愛想がないと言えば良いのか、無駄がナイト言えば良いのか?禅のお坊様は。
それでも、納得がいかない熊は、(その構え崩さず保てば、、死なないのですか?)「相打ち覚悟」(相打ち覚悟なら、命の保障が無いのではありませんか?)「人の尊い命を頂くとき、自分の命も投げ出す覚悟が無くては、勝てるものではない。」「相打ち覚悟なら相手もそう簡単には打ってこれない」「死ぬ覚悟が出来ているから安心立命が出来る。」
形の構えだけが出来れば安心立命が出来ると、浅はかのも考えてしまっていた熊。しかし、現在の竹刀でのたたき合い。死ヌル覚悟で、稽古しているか?本当に恥ずかしい限りです。
「剣道は、生死の境を明らめる物」と言われた範士のお言葉が、耳に焼きついております。如何にしたら、其処へ近づく事が出来るか。一生かかっても其処にいけるか如何か?気の遠くなる話です。
ただ、最近、わずかですが、竹刀での命のやり取りを意識してやれるように、なってきました。先生は。「三昧の境地。」とも話され、それに成り切る事の大切さを、教えて頂いたような気がします。
先生の講和録が残されています、富山での講演、静岡での講演。大変奥の深い読み物です。どこかで手に入れて下さい。
余談。私がカナダに渡る事を知られて、「お前が自身が剣道だと思って、頑張りなさい。向こうに行けば恐らく稽古相手が居ないでしょう。毎日素振りをする事です。素振りさえしていれば、腕は落ちません。毎日する事です。そして弟子を育てる事です。その弟子を育てて、稽古相手にしなさい。」
カナダに渡り、弱くなりはしないかと、必死でした。七段合格まで。毎日1000本の素振りを課しました。時間で20分です。多いときは、子供をおだてて、子供と一緒に3000本振りました。高々1時間です。自分より上の先生が居ない中での修行。上に掛かれないもどかしさ。上の先生を、日本からお呼びする事に決断。沢山の先生方に来ていただきました。お蔭様で、今は稽古仲間も増え、教え子育ち、生徒から、苛められる毎日です。剣道を続けてつくづく幸せを感じています。
熊が若い五段の頃、堀口清範士、にご指導頂いた時、稽古後、
「君は形の間合いは良いが、心の間合いが近いですね。」と言われた事が有ります。その頃本当に未熟な(今もですが)私は、先生に、
「剣道に心の間合いと形の間合いがあるのですか。それは如何言う事でしょうか。」と、お尋ねした。
先生はチョット嫌な顔をされて、それで話が途切れてしまった。それ位は解るだろうとの事で、教えて頂いただいたのだろうが、その頃の熊は、理解に苦しんだ。
それで、なまくらでズルイ熊は、簡単に答えを求めようと邪心を起こし、大阪の西善延範士が稽古に見えられた時、先生にその由を伝えお教えを伺った。西先生は、「そうか、では直ぐ稽古しよう」と言われ、大阪からの旅の疲れも何のその、お茶を一服されただけで、直ぐお稽古を頂いた。
その稽古の後、「ヤッパリお前は間合いの取り方が、下手じゃわい」
私も負けずに、「だからお聞きしているのです」
先生は「熊、お前幾つに成ったか。」
「はい30歳になりました。」
「そうか、未だ解らんだろうな」
「はあ~」私が怪訝そうにしていると、先生が言われるには、昔、西先生が若い頃、長谷川寿先生(範士九段)に稽古をお願いしているとき、長谷川先生がどんどん間合いを埋めてこられて、「西、間合いが近い」と叱られたそうです。
先生も若かりし頃で、ムッとして、「長谷川先生が間を詰めてこられるから、間合いが近く成るのではないですか」と反発したそうです。
そうしたら、長谷川先生は、悲しいお顔をされて、「西、未だ解らんかな~」と言われて、お稽古を納められたとの事。私もこの話を聴いて、ますます、何が何だか解らずに、迷宮に迷い込んでしまった。
ところが、その後カナダに渡り佐藤博信先生のご指導を仰ぐ機会に恵まれ、今だその答えが見つからないで居ますと、お尋ねした所、先生曰く、
「形の間合いは、剣先が触れ合う所とか、中結いの所とか、目に見える所を言うのだが、心の間合いとは、何処で、相手の危険度、動向を感知できるか、これは何センチという距離ではなく、自分が神経を研ぎ澄まし、気を張って、何時でも打って出れる準備が出来ていれば、剣先が触れ合わない距離でも、相手の動向が感知できる。そうすれば、相手も其れなりに、相手を感知出来ていれば、お互いに、打たれることの危険性がある訳だから、なかなか間に入れず、間が詰まらない。神経を研ぎ澄まし、気を張っていなければ、何処まで間に入られても危険度を感知できない。」とお教えを頂き、自分も何となく理解が出来るまでに成っていました。
既に6年の歳月が過ぎていました。
熊が八段を目指し、日本全国を武者修行をしていた頃、大阪の清風高校の朝稽古で、西範士と賀来範士に稽古をお願いして、その後、休憩室でお茶を頂きながら、ご指導を仰いだ。
「熊、お前、幾つに成った。」オット又年の話かよ、と思いながら、「はい50を過ぎました。」と答えると、「年の割りに稽古が若いの」と言われ、褒められたものと思い、ニヤニヤご機嫌で居ると、「熊、お前は何で渋柿を無理して食うのか」先生の話は何しろ謎が多い、解らんので、「ハ~」といぶかっていると、「柿はな、食べ頃になると、天然自然の恵みを受けて、柔らかく、甘く成って、落ちてくる、そこをパッと手を出して受け止めれば、何も無理せんで、美味しく頂ける物を、お前は、未だ熟してもおらん、渋柿を木を無理やり揺すり、地面に落ちて汚れた柿を食っとる。」と戒められた。
そこに丁度居合せた、賀来範士が、「センセ、それがわかれば、八段でっせ」と横槍を入れられた。そして、学校を後にして、地下鉄に乗るために、駅に向かう途中、賀来範士が熊に、小声で、「明日の朝、西先生に一番で、稽古をお願いしとる、朝6時までに修道館に来なはれ、今日の答えが見つかりまっせ。」
突然のお誘いに、「明日の商談は朝10時までにお相手の会社に行けばいいので、喜んで、出させていただきます。」と返事して別れ、その日一日の商談と会社訪問を終え、その夜、大阪城に一番近いホテルを取り、早めに寝た。
翌朝、修道間に出向き、稽古が始まった。範士お二人は70才を超えて居られると思う。お二人が立ち会われた。そのお二人の、剣先のやり取り、間のやり取り、緊張感がビシビシと伝わって来る。その時正直「凄い」と感動して拝見していた。
そして、お互いに手を出さない。いや、出せないのが、本当の所では無いのだろうか、お互いに隙が無い、気持ちに揺るぎが無い。そして延々と攻め合いが、緊張感の中で続く。そのビリビリ伝わる攻め合いを、拝見しているうちに、謎が解けた。
これだ!!、熟した柿の落ちる機会をお互いに狙っている。相手の心に動揺が出る機会を待ち、探り合いをしている。その動揺を発動させようと、攻め合いが続いている事を感じた。まさにそれは、竹刀での真剣勝負。斬るか、斬られるか。
それに引き換え、俺の稽古は、何だ?機会でもない所を強引に打って出て、相手の剣も心を無視して、ただガムシャラに竹刀を振り回していた。無理やり、渋柿を揺すり落としていた。お二人の稽古を見ているうちに、感動で鳥肌が立ってきた。
羽賀範士がいつも言われていた。「打つ前が剣道。打ったら運動。」熟した(機会が熟す)柿が落ちる瞬間。(神経を研ぎ澄まし気を張って居なければ機会は捕らえられない。)無駄打ち(稽古が若い)を無くすのではなく、無駄うちが出来ない。そこまで自分の剣道を、昇華させなければ本物では無い。大変有意義な朝でした。
たしか、凌雲館に招聘された第一号の先生が渡辺敏夫範士でした。範士には2度富山に来て頂いて、でご指導を頂いた。当時私は、確か4段程度でしたが、先生に大変気に入られ、最後に先生の竹刀を頂戴しました。
今でも記念にとってありますが、今思うと,熊は当時から物怖じしないと言うか、厚かましいと言うか、(苦笑)で何度も何度も範士に稽古を挑み、一度の稽古にに3度掛かり、4度目に行くと、熊、もう良い!!と断られました。
しかしメンの中では笑って居られ、食事会のとき、熊を手招きされて、言われるには、「自分の稽古を後ろから誰かに見てもらえ、」(それは何故ですか?)「昔、俺が学生の頃、中山博道先生にお稽古お願いして、良い様にあしらわれてしまい、それを順番待ちで後ろで見ていた、学友が、「(渡辺、お前の竹刀は先生の体から縦横無尽に外れているが、博道先生の竹刀はお前の体の外で、お目にかかれないぜ)」と、言われたとの事です。つまり。剣先が相手の体の幅の中で働いている。この事を意識して稽古をしなさい。
竹刀を振り回すのは良くない。出来るだけ相手の中心線から剣先を外さず、刷り上げ、返しも、相手の体の幅のなかで出来るように、工夫をしなさい。と教えられましたが、今だに中々出来ない。しかし、それだけは今でも稽古のときは意識して稽古を続けています。
今はビデオがあるので、時々、稽古を写してもらいます。がっかりしますよ。自分の下手さに。自分の気付かない欠点が露に出てる。しかし昔は学生さんでも、見取り稽古が出来ていたんですね。時代の何が変わったのでしょうね。
ついでに、そのとき教えて頂いたもう一つの事が有ります。範士がお稽古中、富山では大先生がお願いされていました。
その大先生が、範士の片手突きをいとも簡単に、決められてしまいます。おまけにその先生が、何かの拍子に、スッテンコロリンと、こけてしまわれた。自分では何か魔法を見ているような気にさせられてしまいました。
その事をお風呂で範士のお背中をお流ししている時に、そっと聞いてみました。範士は、「あれは、機会だけの問題だよ。相手が、前に出る瞬間、竹刀の柄尻に小指を掛けて、スーとまっつ直ぐに突く。(チョット左手を少し上へ持ち上げられるように示された)そのとき、右足を出し、突きは左手を出すので、体は相手に真正面に正対して向く、だから意外なほど相手に力が届く。」と教えられました。
それで次の日のお稽古のとき、その事を見よう見真似で、範士に試した所、まぐれもまぐれ、大まぐれ。範士の喉下に私の剣先が吸い込まれるように入り、一瞬自分の目を疑いましたが、範士がグラ~、とされた。そして、ニコ~と笑われ、「ウン~頂戴。」それで、その日のお稽古の後、ご褒美に範士の竹刀を頂いたような訳です。
今思うに、あの時のお風呂、二人しか入れなくてよかったな~。先生方のお世話は、絶対進んでさせて頂くのが幸運を招く。しかし私は今。片手突きはあまり遣りません。それ以上に、メンに拘って捨て身で打つことを勉強しているからです。
70歳でも過ぎれば、思い出して、遣って見ますか?(笑い)
それでも、あの時は、延々と、基本の打ち込みを遣らされたな~、紙面で説明できないのが残念ですが、特に足裁き、気剣体の一致。
やかましく、やかましく、ご指導されたことを、思い出します。
そう言えば、今、あのような足裁きは、皆無ですね。お目にかかれない。
皆さん試しに、チャレンジして見ますか?、一挙動の早素振り、(跳躍素振り)有りますよね。あの足裁きで面返し面。面応じ胴。
打てますか?足は右左きちっと、別々に動かしてですよ。両足、一緒に出たり入ったりしないように、念のため。(でも多いよこの足)
突きの話がそれてしまいましたね。だから言ったでしょ。私は突かないって。逸れるから(笑い)
熊が京都大会の朝稽古に参加するとき、必ずお稽古をお願いする何人かの先生がいます。そのお一人が賀来範士。
範士との出会いは、七段受験で日本を武者修行で回っていたとき、大阪の清風高校の朝稽古で、西範士にご紹介頂いたのが始め、その後、トロントの世界大会のとき、審判員として、見えられたときに再会。色々お話を聞き、大変面白い先生で、一度に好きになりました。
それ以後、事あるごとに、お教えを請うています。京都の朝稽古の後、熊は範士の話を聞くのが楽しみで範士を探します。大抵は武徳殿の前の喫茶店かその横に店を張る武道具店で休んでおられる所に行き、稽古のお礼を述べに行くのです。ホンマ、オモロイデ~。
範士は、まるで、吉本興業と契約されているかと思わんばかりの、ユニークなご指導を頂けるのですが、これが楽しい、心に響く。
「アンナ、今朝お前と稽古したやろ、お前、万有引力を何と思うとる?」(ハア~?)何のことか解らず、訝っていると。
「万有引力は地球が引っ張る力や,解るやろ」(はい)
「ホナナ、何でお前万有引力に逆ろうとる」(はあ~?絶句!!)
「大体、万有引力は何処へ向こうて、力が働いとる~」(サア~?)
「地球の中心や、地核言うんかいな、そこに、向こうて力が働きよる」
「地球の中心やで、中心」(はい、それは理解できます)
「ホナラやな、お前さん地球の中心に向こうて立って構えてるか?」(サア、意識した事が有りませんが)
「ソヤロ、だから、ダメなんや、」(といいますと?)
「構えが方寄っていたらやな、真っ直ぐ打てるか、刃筋が立つか」(ハア~確かに)
「セヤロ、だからやな、地核向かって90度に立つ、それでエエ構えが出来る。」(では如何すれば地核に向かって90度に立てますか)
「アンナ~、足を腰の幅にしてヤネ、足の内側を平行に保ち、ぐううんと背伸びして、爪先立つんや、やってぇみい」」直ぐにやって見る、
「ドヤ、フラフラしよるやろ、」(ハイ)
「でもナ、どっか一箇所バランスのエエとこが有る、フラフラせんとこや」(ハイ)
「そこで、踵を下ろし、右足を少し前に出す。それで、構えてみなはれ。エエデ、背中がしゃきっと伸びて、天に伸びてスクッと立ってるわ」
「セヤ、その構えや、持田先生(盛二)や森島(健男)先生はこれやで、この構えでナイト、ああはでけへん、あの構え天に伸びてるで」
昔、凌雲館で小川忠太郎範士が言われたことがある。
『「1000人に一人、立つだけで、構えになる人がいる。後の999人が構えを作らなければ成らない。それで、構えを如何のこうのと研究した人が居った。兵庫の松本範士、人体構造,骨の研究までして、第何関節を如何のこうの、とやっておったが、去年の柳生で、松本君が、小川先生、究極の所、構えとは、骨盤の上に真っ直ぐ背骨が乗る事ですよね。」と言うんだ。私はやっと其処に気付いたですか?と言ってやりましたよ。』と言うお話を聞いていたので、妙に納得できました。
皆さんもだまされたと思って、試してみてください。驚くほど姿勢が良くなりますよ。私は毎回の稽古で、必ず自分を確かめるために、やっています。しかし、ホンマ、おもろいで~このセンセ、何が出てくるやら、わからん。何で熊まで大阪弁にナラナあかんの?先生ごめん。
別に受けを狙っているわけでは有りませんので、誤解の無きよう、お願いします。
その次の年の京都で、又朝稽古のお礼に、範士を探して、ご挨拶に行きました。すると、今年も万有引力の話。しめた、その話去年聞いてる。と内心ほくそえんでいい気になっていました。上手く答えてやろうと、強かに考えていました。
「アンナ、お前、万有引力知ってるか?」(ハイ、地球の引っ張る力です)
「ソヤ、その力や。お前知ってて、何で天然自然の力に逆ろうとる。」(はあ~、ダメですか、意識はしているんですが)
「アカン、アカンそんなもん。ぜんぜんでけてへん」
しかし、去年から比べればそれなりに構えは改造してきたつもりなので、どうも納得できないでいると、「万有引力はやな、地球が物をひきつける力やろ」(ハイ)
「そんならやな、お前なんで上向いて打ってきよる?お前の体、打ち込むとき、上に上がるぞ。お前体重どれだけある。」(はい、82kgくらいでしょうか)
「そんんな、82キロもある体重上に持ち上げて打ちよる。たいそうなことやで。」
「万有引力は地面に引きつけられる力やから、何で、お前の体重、地面と平行に動かさんのや?」
「上に跳ぶか、下に平行に飛ぶか?どちらがいいと思う?」
この言葉を聴いた瞬間。体が凍りつきました。打ち込みの際、皆さんの体はどの方向に移動していますか?打ち込むターゲットは。前方であり、上では無いはずです。
私もそれは違った形で羽賀範士に指摘されて直す努力はしていました。しかし、それを言われて、目のうろこが落ちました。
それ以来、その体の移動に心を配り、何とか、一拍子の面が打てるようになりました。未だ、完全ではありませんが・・・・
わずかなようですが、打ち込みのとき、体を平行移動できるか出来ないか、メン打ちのスピードがかな路違ってきます。これが、いくらか出切る様になり、若い人たちとの相面打ちもそうそう、スピードで負けなくなりましたよ。不思議です。
この面打ちに関して、リンク先の島亮先生の寺子屋の中にある。西野吾郎先生の面打ち参考に成りますよ。