人は無くて七癖と言われる。それほど癖と言う物が着いて回るのだが、剣道において、癖は総じていいようには言われない。
昔、榊原正範士が言われた事で、「範士の先生方は夫々個性があり、剣風がある」と言われた事を思い出す。
又、こうも言われた、「剣道は基本と言う形の中にはめこみ、其の形を固めて、其れからの脱出が修行だ」とも言われた。
癖は、基本の形にはまっていない物。個性は其の形から抜け出た物だと解釈しているが、一度着いた癖は中々直らない。
熊の道場に、一年前から、他の道場で他の居合道連盟で、無双直伝英信流を学ぶ男が足繁く通ってきて居る。
彼は熊の居合いを見て、何かを感じたらしく、何かを掴もうとしているのらしいのだが、過去、彼が習ってきた居合は、正直、??が並ぶのだ。
相手との想定が無い、居合の形動作だけ覚えて、理合いも何も無く、刀を振り回して居るだけで、態勢も整わない。言葉悪く言えば、演武ではなく、演舞になるのだ。踊り。
そこで、注意をすると、「ハイ先生」と返事は良い、そして、一度は直そうと試みるのだが、数分すると、元の木阿弥。癖が抜けない。顔中汗をかいて熱心に稽古するのだが、
彼を見ていて、熱心なだけに、悪い癖が一度着いたら大変だな~と思うのだ。
勿論、個人差はあると思うが、直せる人間と、直せない人間。単に素直だとか、不器用だとかでは片付けられない、何かが有ると思える。
本気で直す意志があるかどうか、解らなくなってきたので、最近指導はしない事にした。
時間の無駄なのだ、熊が彼に時間を割けば割くほど、其の分、熊の生徒たちが指導が受けられなくなる。だから、もう捨てておく事にした。
このように、自分では気付かないうちに、意外と、指導者から諦められている方々が多いのではないだろうか。そうとすれば非常に残念な事だと思う。
指導者から諦められないように、癖の無い稽古に挑み、形の整った、基本を完全に身に着けて、それから出てくる個性を、磨いて行こうではないか。
基本が固まる前の個性は悪弊であり、其れを個性と呼ぶにはいささか疑問があるのだ。
正しい基本習得、非常に骨が折れる作業だが、其れを身につけないと剣道も居合も上達は望めないような気がする。