一年の半分があっという間に過ぎ去った。今年の夏は割りと過ごしやすい日が続く。
例年より可也気温が低めに推移しているようだ。山の残雪も7月まで見れるのは此処近年には珍しい現象だ。
だがやはり夏は夏、どうかすると寝苦しい日も無いではない。昨夜3日がそうだったが、春に引っ越した家は角家で窓が沢山在る。そのお陰で風の通りが良い。
それだから、夕方から窓を開けておけば寝る前に十分に快適な温度に成る。
おまけに、日本と違い、蚊が居ない。此れだけ緑の中に包まれて居るが、虫が家の中に入ることは非常にまれだ。
夜の10時過ぎまで明るいので、時間感覚は狂いやすいが、寝不足になる事は無い。
最近、何時もお世話に成っている交剣知愛@MIXの熊の友達の中に居合道を始めた剣道七段が二人居る。素晴らしい事だ。又、在る新七段は、以前から古流の形を勉強している。
また、八段の一次を通過した剣客は訪れた居合道の道場で、足捌きを研究して感動していた。
剣道を如何捉えるかで、その人の剣道が決まると思うが、現代剣道でも古流に学ぶ所が非常に大きいと言う事を忘れてはならない。
昔、口さがない先生が言った。「剣道家たるもの、刀の抜き差し、扱い方を知らなければ、単なる棒振りだ」と強烈な事を言われたのが心に残っている。
実際に起きる事件でも、ナイフや、包丁のほうがどれだけ危険か。
刀で殺戮が行われるようなことはめったに無い。
ましてや外国、北米では武器にすら相当しない。
拳銃所持が出来るアメリカでは単なる鉄棒だ。
昔小川忠太郎先生が言われた、剣道でも意地の悪い稽古をする人が居る。お互い意地に成り叩き合いをする連中は、犬の喧嘩より下等だと言われた。
犬は武器を持たない。例え竹刀といえども竹刀は武器。人間の体に充分すぎる傷を負わせる事が出来る。
其れが、証拠に、竹刀の使い方を誤れば、割れた竹が面金を通して目に付き刺さり、失明はおろか、人命さえも奪った事故が過去にある。
だからこそ、お互いが謙虚に、心を磨く道具として丁重に使わなければ成らない。
何も鋭利な刃があるから武器だとは限らないのではなかろうか。
熊自身、お刀は自分の邪な心を切る道具だと解釈している。
抜こうと思えば刃筋が立たない、切ろうと力めえば刀は走らない。
派手な技で自分を格好よく見せようとすれば怪我の元だ。人を傷つける前に自分が傷つく。
何度も何度も自分の手を自分の過ちで切ってきた。だから、お刀は自分の邪な心を切る道具なのだ。
其れが居合道暦40年の歴史の中で学んだ一番の収穫だ。
切れるもの、竹刀も刀も武器に何等変わりは無い。
要は其れを使う人間の心が決める事だ。