剣道は何のために学ぶのか、昔から、無心、無念無想の境地、等と言われている。それを学ぶために、習得する為に学んでいるといっても過言ではないのではなかろうか。
体の健康、運動面、精神衛生的な目的だけなら他のスポーツがある。自分の体を打たせ、相手の体を打たせていただいて、其の刹那、瞬間、瞬間に去来する、心の葛藤。誰もが思うであろう、打たれたくないが打ちたい。何とか勝ちたい。それは、欲望の塊である。
それらは、無念夢想の境地、無心の境地等とは完全にかけ離れている考え方だ。それどころか、恐らく完全に逆方向的思考ではないのだろうか。
では何故、剣道を通じてそんな逆方向的発想で、無心、無念無想等の境地を学ぼうとするのか。一見無駄にさえ見える方法を何故先哲達は此れを利用してきたのだろうか。
熊は逆に、瞬間瞬間の刹那其の判断をいやがうえにも強要されるて、それが難しいからこそ、あえてこの方法で先哲たちが選んで、学んできたのだと思っている。
難しい方法だからこそ遣り甲斐がある。簡単でないからこそ成就の暁には本物に近づくことができる。そんな心理が働いていた様に想えるのだ。
昔なら、負けは命を落とすこと、打たれれば最低でも怪我は免れない。すなわち、それは、恐怖との戦いでもあった。其の恐怖の打ち勝つためには、無欲、無心、無念無想でなければ成就できないことを先哲たちは知っていたのであろう。
欲を離れて、物事に取り組むと不思議と上手く行く。心に欲を抱いて取り組むと不思議と上手く行くものが上手く行かなくなる。
商売を遣りながら、剣道に教えられることの大きさに感謝している。剣道の教えはそのまま人生に活かせる。又其の効果が絶大なことにも驚かされる。
欲から離れて商売をすることで、全てが上手く回っている。利益はお客様が運んでくれる。
商売は儲ける為に遣るものと勘違いしている間は本当の利益は掴め無いのかもしれない。
世界一の大金持ち、マイクロソフトのビルゲイツ氏は自分の収入の殆どを世界のために寄付している。そ言う感覚の持ち主だから、自然に利益が転がり込んでくるのだろう。
如何に、われわれ剣道を学ぶものは素晴らしい教えに基づいて人生を送ることができるか、無欲闊達。剣道修行が人生に活きる。
何ともありがたい事だ。