昔、羽賀の親父と気迫について話したことがあった。其の当時、熊は気迫は、燃え盛れば燃え盛るほど良いと考えていた。
喧嘩腰と言えば良いのか、狂気=気迫で、猛々しく、強ければ強いほど良いと思って親父に聞いた。
親父は、「それは、猛獣が餌を漁る、まだまだ低い段階の気であり、人間で有る以上もっと上に、静かで澄んだ気の位が有る」と教えられた。
其の当時は、「そんなものかな」としか、、考えが及ばなかったが、最近、自分の攻めについて考えることがあり、色々研究していて、おぼろげながら、ひょっとして、此れではないのかな、と言う感覚が身についてきた。
以前は、よし、遣るぞ、と下腹部(丹田)に力を込めて、大盛なる気力を発揮できるようにしていたが、ある日突然、なんだか肩の力が抜け、下腹部も軽く閉めているだけで、そんなに力を入れる事も無く、なんだか少し頼りないくらいに、自然に構えて居る事に気づいた。
それで、普通に前に出て攻めてみたら、不思議なほど相手が固まる。少し出きる者は慌てて飛び出したりもした。それがなんだかまだ自分でも解らないが、気持ちは、争うでもなく、迎え撃とうと言う気も無く、ただただ、どうぞ、お好きなように、と自然にしているだけで、体が勝手に動いて相手の開いている所に、竹刀が走った。
済んだ気、、宮本武蔵が言う「戦気 寒流澄める事鏡の如し」
と言うのは、こんな感じなのかな、とも考えたりした。恐らくはまだまだ、そんな立派な位に達しているとも思えないが、親父が言う「澄んだ気」其の段階はどうやら理解が出来てきたのではなかろうか。
そこに至るには一つの大きな鍵があるのだが、それはまだ未熟ゆえ、ここでは言えない。ただ、小川忠太郎範士が言われたことも脳裏に深く根付いている。
剣道は、「生死の境を明らめる物」と言われた事がなんだか解る気がしてきた。