剣道では、見取り稽古と言う言葉が良く使われる。人の良い所を見て学べ、と言う意味で使われるのだが、聞き取り稽古は熊が自分で勝手に作った造語だ。
熊が六段受験で日本に帰国して、富山の先生方が泊まる宿に同宿して、食事に出かけた帰り道、其の頃、富山県で、たった一人の範士八段、板橋友吉範士が熊を可愛がってくれて色々と話をしてくれた。
範士は 武専出身で、身長も180cmは優に超える威丈夫だが、稽古はやさしく、若い熊たちを、時には、少しオチョクリ(おふざけ)を交えた稽古で楽しくご指導いただけた、非常に心の深い、優しい先生であった。
其の範士の話で今も、熊の心の中に深く刻まれている話がある。
範士が八段の審査を受けられたときのことである、何度か苦労をされて、合格をされたときに、とある九段の先生から、「板橋君は打たれ姿が立派だ」と言われたと言うのだ。
打たれる姿が立派これは何を意味するのだろうか、現在の剣道の試合が剣道だと誤解していたら、先ずこんな考え方には間違っても出会えない。今の試合は何であれ打たれずに打てば勝てるからである。
つまり姿勢が崩れようと、構えが崩れようと、顔をかしげて、体を曲げてでも、相手の打突を外せば一本には成らない。
また、姿勢が崩れてでも、打突部位を正確に捉えていた場合は有効打突になる場合が多い。
だから、現代の試合剣道は当てっこだと比喩されても仕方が無い。
若し剣道を通じて、心の勉強にまで自分の稽古を高めたいと考えていたら、相手の攻めに動じたり、打突の勢いに心を動かされただけでも、自分の負けだと言うことが理解できる。
その結果、打たれると言う事に、繋がるからだ。
だが、剣道を当てっこで捉えたら、打突部位に当らなければ打たれた事には成らないから、見苦しかろうが、なんだろうがお構いなしと言うことに成る。
だがここで大事なのが聞き取り稽古に成るのだ、剣道で自分を自分で辱めるか、自分の剣道を人間形成の手段として生かして行けるか、大きな分かれ道がここにある。
「打たれ姿が立派」打たれても尚、崩れないだけの自己の信念。
相手の攻めにも、打突にも、心も体も崩さない、それでこそ、心技体一致の境地が作り出されるからに他ならないと考えるからだ。
何とはなしに、耳に入る、先生方の貴重な話。其の中にはものすごい宝がいっぱいに含まれている。其の話を、宝にまで、自分の心とともに磨き上げられるか、蛇石のまま、土に塗れさせたまま置いておくか、全ては自分自身の心にあるのだ。
たかが人の話と言う無かれ、聞き取り稽古から、自分を磨く道も有るのだと言う事を、知って欲しい。