古の教えに、曰く、皆さんご存知の・・・
「我敵を、ただ打つと思うな、身を守れ、自ずと漏れる、賤ヶ家の月」
と言うのが有りますよね。
まあ、言わば、懸待の一致とも取れる、教えですが・・・
まあ、、語弊を恐れずに書けば・・
身を守る必要性は無いに等しいと言う事です。
何故か??
答えは、
自分の気の充実。これが出来ていれば、先に掛かって稽古が出来ます。
無理やり、無駄な暴挙に出て、(理合いに叶わない処)強引に打ちに行くことさえなければ、そこでの気の充実した緊張感が有れば、相手の動きに自然に対処が出来てくるはずです。
攻めている事=先をとれている事=当然主導権は我にありです。
これが出来ていれば、何ら意識して身を守らずして、守っていることになると思うからです。
懸待の一致も、同じで、待を=洞察と捉えるべきで、待つ=相手の出方を待つではない。
勇猛果敢な攻撃中心の中での冷静なる洞察。
これが懸待の一致と捉えるべきだと思います。
この充実した、気の緩みが全く出ない稽古。
これを、第一主眼に稽古目標に上げて行けば、間違いがない。
稽古を真剣に取り組んでいれば、いずれ体は自然に動くようになる。
体が自然に動く=いちいち考えた稽古はしていないはず。
歩くが如き、次は右足を出して、左手を出す、などと考えていにでしょ。
だから稽古では、躊躇している暇もない。瞬間瞬間の判断が切れないように、気力の充実が、できるようにする。
最終的に剣道はこれしかないですね。
後は、すべて枝葉の問題でしょう。