剣道、やはりその中に有るバロメーターは、何かといえば強さだと思う。
大昔、某範士が冗談で八段審査の事を話した事が有る。
今と違い当時の八段審査は剣風、風格を重んじていた。
今は。どちらが打てるか打てないかが基準になっている。
その時に、某範士が言うには、「審査のお相手は剣風が良く風格が在り、剣道が強くないのに当ると幸運だ」と言われたことが有る。
当時、三四段の頭では、成るほどと感心した記憶が有る。一見強そうで、実は強くない。 そんな人と対戦できれば幸運だという事だ。
誰の目に見ても強そうなお相手を、若し打ち込めたら、それは合格間違いが無いと思う。マア、これはあくまで冗談での話だが、単純に笑えないのが可笑しい。
そこで、剣道が強いか、弱いか検証してみると、宮本武蔵が素晴らしいことを書き残している。彼は真剣試合に望み、「神仏を尊み、神仏を頼まず」と喝破している。
処がこれの、「神仏を頼まず」だけ取り上げて宮本武蔵は傲慢だ、と言う人が居たが、それは間違いだと思う。
何故なら、武蔵は、先に、「仏は尊み、」という事をはっきり述べているからである。
これは凄いと思うのは熊だけでは有るまい。分かりやすく言えば、
神仏は尊い存在では有るが、物事を祈祷、お願いする存在ではない。ということをはっきり言っているのだ、と解釈している。
では仮に、年頭にお参りする神様は、お賽銭の上下で、お参りする人の上下を決めているのであろうか。若しそうなら、笑わざるを得ない。
むしろ武蔵は、真剣勝負は、神頼みよりも、自分を信じろと言いたかったのだと思う。
では二人の剣客が、〃神様に、同じお賽銭の額でお祈りされたら、神様は 如何決断して勝敗を決めるのであろうか。
そんな矛盾を、諸共せずに、喝破しだに過ぎないと思うので有る。
ということは自分自身が強くなければ物事は解決、勝を得る事が出来ないのだという事に、なりはしないか。
神頼み、されど神頼み、自分の心の弱さを神に祈るのは一番卑怯な遣り方だと熊は考えている。
自分のことは自分で解決するしかないのだと、自分に言い聞かせている。
だから剣道も心構えが軟弱では、目的達成など夢のまた夢。勝 は得られない。