Canada Youshinkan Kendo Dojo

自分が思う剣道

人それぞれに自分で思い描く剣道のスタイルが有るものと思う。試合中心に考える人。精神修養の克てとする人。

私自身、大それた事が言えるほど、剣道を極めたわけではないので、大きな事は言えないのだが、どちらかといえば、剣道を通じて人間的に豊かに成りたいと考えている。

唯、最近剣道界を見渡すと、試合だけが重視されて、試合だけが独立して剣道そのものと言わんばかりの取り扱い方をされているのには少々辟易している。

どの剣道雑誌を見ても、試合結果にどれだけのページ数が割かれているかを見ても分かる事だ。残念な事だと思う。

確かに試合で克つというう目的の為に努力する事は尊い事だと思うが、その試合に勝たんが為に、剣道本来持つ、日本人の心までまげて、反則にならなければなんでもする、勝ち方は如何な物かと何時も不愉快に思う一人である。

だから今の剣道の試合には、正々堂々と戦う試合なぞと言うのは、殆ど垣間見れなくなってしまった。武士道精神の面影は今や試合剣道の中には見出せないくらいに堕落してしまった。

大体が剣道、何故三人の審判が必要か。理解に苦しむ。
剣道の稽古中でも試合中でも、打たれれば、打たれた本人が一番早く分かるはずだ.

武士道で、道を求めて剣道を学ぶ者なら、打たれたら謙虚に負けを認めれば良い。
なにも第三者の意見など必要がない筈だ。

試合中は極限の興奮状態だから、打たれたことが分からない人が居る、その為に審判が必要という人が居たが、本当にそうだろうか、先ず極限の興奮状態に成ること既に負けであるはずである。それを考えると、 理屈と膏薬は何処にでも着くということが分かる

少なくとも打たれて感謝、打って反省、という剣道本来の姿を自分の心の中においての稽古、試合ならば、審判は自己でやれば良い。

間違いだらけの多数決などに頼らなくても良いではないか。

それとも第三者に決めてもらわなければ自分で判断が出来ないくらいその方々はお粗末な剣道をしているという事だろうか。

自分が打たれたか打たれなかったか、自己の正しい心が在れば、自己判断で出来るはずではないか、

逆に審判、第三者が判定する事で、自分の心を否定されている事に誰も気付かない。哀れとしか言いようが無いではないか。

私自身も京都大会で試合?立会いにで出る。勝ち負けは問題ではない。剣道家が集まる、 目の肥えた、剣道家だけの中でいかに自分の日ごろの剣道ができるか、それを見極める為に参加をしている。

自分の勝ち負けを人に決めてもらう為ではない。
完全に打たれたと思ったら、審判が手を上げなくても、お相手 に頭を下げて引き返すであろう。

それが本来武士が学ぶ剣道だと思うからであるし、先ず打たれる前に負けが分かる。攻め 負けたら打つ必要も、打たれる必要も無いと思っている。