昔、悟りと言う化け物が居たそうだ。
その悟りが、きこりの心中を見透かして、に声をかけた。
「今お前はこう思っただろう。」
きこりは、一々悟りが煩いので、手に持った斧で撃ち殺そう考えた。
悟りは「今お前は俺を叩き殺そうと思っただろう」と又揶揄をした。
きこりは、如何する事も出来ないので、諦めて、一心に斧を振るった。
処が、どうした弾みか、その斧が手から滑って、悟りの頭に飛んで行き、悟りを殺してしまった。
これは無心について教えられた話だ。昔、熊はこの話を読んだ時、成る程な~~と感心していた。
処が、最近又読み直す機会があり、これは可笑しいぞと思うようになった。
それは何故か、先ず、手から斧が滑った。これは油断ではないか。
それと、手を離れて飛んで行った斧は偶然悟りを直撃しただけだと言う事。
これが本当の無心なんだろうかと言う事だ。
偶然は、無心とは違う、油断も無心とは違う。と思うに至ったからだ。
もう一つの話に、小太刀の名手、富田勢源の逸話だったと思うが、殿様の御前で技前を披露して賞賛を浴びて、その極意を問われた時、
「ただただ、さらさらと、面白く使いそうろう」と答えたと言う話がある。
さらさらと、面白く使う。其処には意志が働いているはずだ。何故なら、ただ単に道を歩いているだけなら、さらさらと使う必要もその動作もすることは必要ないからだ。
何かしら、その動作をさせる、必要とする、要素が必ずあると思うからだ。
それは、相手が居るということ。相手が居ると言う事はその相手に対する、何かしらの意志が働く。
意志の働かない偶然は無心とは違うと言う事だ。
昔、ある書物の英訳を目にした事が有った。
「無心」=エンプティーマインド、空の心。何も考えない心、と訳されていた。違うと思った。
エンプティーマインドで起きた事は偶然である。ビルの屋上から、鉄骨が落ちてきて下敷きになった。これは偶然である。
斧が手を滑って飛んだのも偶然である。其処には目的が無い。意志が無い。意志の働かない無心は偶然であり、本当の無心では無いという事ではないか。
さらさらと使うのには意志が必要だ。相手を打ち込むためには意志が必要だ。意志の無い無心は無心ではなく偶然だ。
そのことに気付いたら、悟りの話は、まやかしでは無いかと思うように成った。
偶然は=エンプティーマインド、からの心は、人間の作為が全く働かない。
剣道は相手が居る、打から何かしらの、作為が働く、だから、出鼻も打てば、返し技も出る。偶然からは技は出ない。
相手が居てそれに自然に対処する、これは決して偶然ではない。必ず作為が働く、だが、その作為に縛られない事が、剣道の無心だと思う。