何でもそうだが、物には価値と言うものがある。剣道の指導者も付加価値が高い先生と、そうでない先生が居る。
師匠との出会いも又、この付加価値を上手く見出し、探せるかどうかに掛かる場合が多い。
例えば、国宝の仏像があるとすれば、その価値を見出せない人にとり、古びた仏像はゴミでしかない。
ところが、その仏像の持つ歴史的背景や、作者、制作年代、出来不出来は誰が如何のこうのできるものではなく、その価値は変わらないのだ。
其れと同じで、師匠探しは、骨董の目利きが出来るかどうかと同じ要素が多分にある。昔、小川忠太郎先生が言われた言葉で、「三歳の赤子は、禅の高僧と出会ったところで、その徳の高さはわからない」と言われた。
詰まり、「自分が未熟なら、先生の付加価値もわからない。」と言うことだと思う。学ぶべき事柄を見逃したまま、師匠と仰げる方々との貴重な出会いを無駄にしている人がどれ程多いか・・・・・・・
確かに、世の中には、ゴミとしか扱えない指導者がごろごろ居る事も事実だが、だからこそ、本物を見極める、その出会いを、無駄にしない自己努力を常日頃からしておかなければならないのだと思う。
自分自身が目利きに成るためには、それなりの心の勉強をして置かなければならない。勉強した知識、見識があれば、一見山積みされた、ゴミの山の中からでも、本当に値のある、骨董を探し当てる事が出きるのだ。
吉田松陰は確かこんな様なことを言っていた。
「みだりに、人を師とするべからず、又、みだりに人の師と成るべからず。
本当に、学ぶべきこと有りて、人を師とし、本当に、人に教えるべき事があり、人の師と成るべし。」
素晴らしい、見識であり、尚且つ、中々耳の痛い話ではないか。