切磋琢磨と言う事を、剣道ではよく耳にする。お互いがお互いを磨きあうという意味なのだが、その磨き合う相手が非常に大事だと思う此の頃です。
ダイヤモンドを磨くのはダイヤモンドにしか出来ません。駄石は駄石同士で磨きあっても、仇光した石の輝きしかでないように、ダイヤのように輝く事は無いのです。
勿論、ダイヤという輝く素材があるからダイヤは光るのですが、自分をダイヤにする努力、ダイヤの原石になる努力が大事なのだと思います。
ダイヤの原石になれるかどうか、その方法は、如何に正しい基本を身につける努力が出来るかに懸かって居るように思います。
一口に基本と言ってでも、本当に理に適った基本の習得は容易ではありません。
昔、持田盛治十段が基本に付いて書かれた有名な言葉があります。
基本を身につけるために50年掛かったと言う話です。十段になられる大範士ですら、50年の歳月をかけて身につけられた基本、我々凡人がそう簡単に身に付くとは考えられません。
だからこそ、理に叶った基本習得は一生かけて取り組む修行なんだと、感じています。
又、その、お互いが磨き会うお相手ですが、其れもダイヤモンドの原石でなければ釣り合いが取れなくなり、一方が磨耗してしまいます。
原石になる努力、其れをお互いが心してやる、そんな方々と之お稽古で初めて切磋琢磨が出来る。
昔、カナダに来る前に、小川忠太郎先生が、カナダに行ったら稽古相手が居ないでしょう。だから自分の生徒を育てて稽古相手にしなさい。と言われた事を思い出します。
今、少なくとも、自分の周りには、’沢山のダイヤの原石がごろごろしています。
ダイヤの原石を作る努力は、自分だけではなく、生徒もその方向性を誤ることなく、導く必要が有るのだと言う事を今心から痛感しています。
試合の当てっこ、剣道に拘らない育て方をしてきましたが、原石たちはそれなりに試合にも勝ち、原石であり続けてきました。
そのお陰で、やっと自分の磨きに相手が務まる原石たちが彼らなりの光りを放つまでになってきました。
自分自身がダイヤの原石になる努力。そして、相手もダイヤの原石になるべく導く。それで初めて、切磋琢磨が可能に成る。始からダイヤの原石は居ないのです。
剣道では、正しい努力の末に初めてダイヤの原石になりうる資格を得るのだと思います。どうせ光りを放すのなら、お互いがダイヤの輝きを求めて、修行をしようではありませんか。