心聾
沢庵禅師の言葉である。原語のまま記せば、
心聾ということあり。心聾とは、心の耳つぶれと言う文字なり。鈍なるものは耳の遠い様なり、人の言う事をちゃくとは聞き得ず。
さらば、耳は遠きかと思えば、耳は遠からず。心が鈍きが故に、耳に入りながら、心に合点する処遅きによりて、耳の遠きようにあるものなり。
まさしく耳に入れども、心を得ざるなり。心聾とこれを云うなり。
耳が痛い話である。面白い話のついでに、有る時、羽賀の親父が白人剣士に対して、
人の話を聞くときは、頭の中を空にして聞けという意味で、コップの水に、例えて話をした。
コップに水が一杯入っている。其処に水を足したらどうなるか。
そしたら、その白人何と答えたか?水が一杯なコップには誰も水は注ぎません。
では、半分だけ水が空だったらどうする。
半分だけ水を注ぎます。
そうしたらその水はどうなるか、
温度が変わります。
だって。文化の違いだけど、日本のたとえ話では、剣道は教えられません。
恐らく沢庵禅師の言葉も直訳されればその深い意味は何処かに消えてしまうだろうね。
さてさて、皆さんも、耳聾に成ってる人いませんか。先入観もそうですね。
ただ、最近本当に情報が氾濫していて、何が正しくて、何が間違いか、判断が難しい。
だからこそ自分自身が確りと、していなければ、成らないと感じています。それと、
自分が信じる人から、教えを受ける時は、できるだけ純真な心で、全部を吸収したいものですね。
だからこそその情報源を選ぶ自分自身が良い選択ができるように日ごろから正しい勉強をして行かなければ成らない。さもなければ、とんでもない回り道を強いられる事になる。