「剣道は、面打ちに始まり、面打ちに終わる」とよく言われる。
それゆえか、ある程度の段位を持つと、面打ちにかなりの剣道家が意識を持ち取り組むようになるのでは無かろうか。
其の内の何%かの人は高段を目指して、究極の面打ちを求めて修行をするようになる。
で、剣道界も素晴らしい面を打てる剣士を賞賛する傾向があるので、尚更面打ち修行に拍車が掛かるのだと思う。
熊も子供の頃、高校までは、ただ我武者羅に勝つ為に何でもありみたいな稽古をしてきた。高校卒業後、6年間ほど稽古から離れたが、24歳で再開して、教え を受けたた先生に、面打ちの大切さを学び、それ以後面打ちはかなり意識して取り組んできたのだが、今だ自分が理想とする面が打てない。
だいぶ近くなってきているとは思うのだが、其の遣り方が、それで正しいのかどうかはまだ結論が出ていない。しかし、其の研究段階で、長年の経験と観点から、こうしたほうが良いと言う漠然とした物だが、見えてきた気がする。
やはりこれにも修行の段階と言えば良いのか、また、年齢とともに脚力が落ち始め、無理な飛び方が出来なくなる。そんな事も大きく影響してくるのだと思うが、面打ちそのものが簡素化されて、打突動作に無駄と無理が少なくなってきたように思う。
そこで今、現段階で、自分ながら気を付けて面打ちに取り組んでいる事が幾つか在る。
その1、攻めきる事。攻め負けていては例え面が打てたとしてもそれは偶然の当たりでしかない。攻めきって初めて面が打てる機会が訪れる。相手が崩れるからだ。
だがこれは容易ではない。力の差が有れば簡単だが、差が無ければ無いほど困難に成る。相手もそう簡単には崩れないからだ。
ではどうしたら相手を崩す事が出きるか、自分の気迫を昇華させるしか方法が無い。
気迫を高めるつまり、何物にも恐れを成さない心を作り上げなければ成らない。
そのためには、命を懸けることしかない。
変な話だが、今、自分の稽古では、何時も、「さあ殺せ、サ~どうする、だがただでは死なんぞ、お前も道連れだ、サ~殺せ」と念じながら、開き直って稽古をしている。
たかが竹刀と言う無かれ、心の持ちようでは真剣勝負が出きる。熊はそう信じている。
ありがたい事に、切られても死なないだけ。だが心は真剣勝負で戦う。
それで初めて、相手を超える気迫が出てくる。若し相手も死ぬ気なら、勝負は着くまい。そうなれば潔く、相打ちに成るだけだ。其の機=気が出たときは、そのまま死にに行く。それが捨て身だと思って居る。
体の機能が如何のこうの言っている間は、本物の面なんか打てるはずが無い。
いかに攻め切って捨てれるか。それだけに心を砕いている。
この面について、少し連載してみたい。続く。