最近、読んでいる本で、白隠禅師の逸話集が在る。
白隠禅師は、無刀流開祖、山岡鉄舟の禅の師匠だ。そのほかにも、白隠さんは沢山の大大名にも禅を紐解いた方だ。
その人なりは飄々として、ユニークな方なのだが、明治の時代にまで生きた方なので、記録が確りしている。
その白隠さん、その修行の激しさは、そのユニークさとは裏腹に物凄い修行を積まれたらしい。
いや、逆に言えば、その激しい修行がゆえに、人間としての在り方が出来上がり、どんな時でも泰然自若としておられたのであろう。
まあ、時代が時代だが、大名を叱り付ける禅坊主もそうざらには居まい。
相当の覚悟が要るはずだ、まかり間違えば首が飛ぶ、それを物ともせず叱れる勇気。
真人の修行をしていたから出来たことで、われわれ凡人の及ぶ所ではない。
今の剣道界を見渡しても、いろいろ言われているが、本当の勇気の在る、腹の出来た方が存在しないという事だろう。
目先の欲似振り回されて、自分の保身に、功名心にだけ煽られているような世界では、本当の剣道修行など、白隠さんから見れば、臍茶物に違いない。
マア、日本全体が可笑しく様変わりをしてきている背景を見ても何も出来ないのだから、言うだけ無駄なのかもしれない。
恐らく、現代では、小川忠太郎先生没後に人物は居ないことだけは確かなようだ。
こんな事を平気で言う、だから熊は嫌われるのだ。分かっている別に嫌われたって何の事はない。
正しい事は正しいのだ。
真理は真理なのだ、天は嘘をつかない。連綿と、老害を垂れ流しにしている、何処かの連盟の会長、役員よりはましだと思うからである。
試合を偏重する余り、勝ち負けにこだわり、負けた選手を未だに不甲斐ない等と、言い捨てる。
自分達が指導してきた剣道が可笑しいから、負けただけの事ではないか、その責任を選手にぶつけ、のうのうと会長職に留まる。昔から言う、敗軍の将兵を語らず、こんなことさえ出来なくなっている。
その会長の首に鈴さえつけれない、保身、功名心の固まり連中には、出来るはずがない。
剣道が何処に行くか、このままでは、当てっこ剣道から、絶対に脱却できない事だけは確かなようだ。
白隠さんの逸話集を読めば読むほど、その偉さに心を打たれる。