「スランプは一日に何度でもある。」
一日の稽古、イヤ、一回の其の相手との稽古の中でも上手く行く場合とそうでない場合があると言う事だと思う。
其れと、「一度の相手の稽古で同じ業を何ポンももらうのはよくない。」
と、今は無き中村毅先生が言っていた。
これらは全て、考えながら稽古をしろと言う事だが、其の考えに拘ってもいけない。
考えると=無心ではないと反論する人が居るかもしれない。
又拘る事も無心でない事は確かだ。
だが、考えなければ行けないのは、無心とは本当になにも考えていないのとは違う、考えてはいるのだが、ある瞬間、自然と体が反応して、思わず打っていた、と言うのが無心だと思う。此れは、中西康範士の教えだ。
だから、逆な見方からすれば、打たされたのもある種の自然に反応したわけだから、無心だと言えなくも無い。
ただ、前者と、巧者では、大きな違いが有ると思う。其の差は、其の瞬間に気持ちの充実、気合が充満されていたかどうかの差だと思う。
打たされた=脅かされた、欲をそそられた。=それらに同調するのは、気持ちが充実していない証拠だ。
充実している時は、そんな事だろうがどんな事だろうが、其れを乗り越えて、押しつぶして、果敢に出ているときであり、其の充実度には如何なる力もかなわないと言う事だろうと思う。
スランプが日に何度も在る=気持ちにむらがある。
同じ所を何度も打たれる=集中力が欠けていて、気持ちの充実がはかれなかった。と言う事に過ぎないのではなかろうか。
では気持ちの充実はどうしたら出来るか、熊は集中力だと思う。
集中力を高めて其の集中力の持続を保てるように稽古を積む。
体は正しい稽古していれば自然と動くようになる。正しい稽古とは何か=崩れない稽古のことだ。これは肉体だけではなく心も含まれると言う事を忘れてはいけない。
心を崩さない、体を崩さない稽古は=簡単な事だ打たれる覚悟を決めれば良い。