前回は、心構え、気構え、腹構えの概略について述べたので、今回は実践論、心構えとして気のついた事を述べてみたい。
前回、心構えは、あやふやな物だと書いた。確かに、自分の心ほど当てに成らない物は無い。だが、その心も、自分の意志で、強く持つ事ができると考えるのである。
剣道の精神的な構に、心構え、気構え、腹構と段階的に昇華して行けるものであれば、そのスタートラインが心構えである訳だから、そのスタートラインを一歩でも前進させて、高い処からスタートした方が良いに決まっている。
心は、自分で考える事であるから、その意志を強固にすればするほど磐石な基礎ができるということになる。逆に言えば、あやふやな心だからこそ、自分自身の思い次第で変える事が可能と言う事にも成るからだ。
先ず、自分の確りとした、信念を持つ事が大事だと思う。自分は何の為に剣道を遣るのか、その剣道を通じて何を学び、何を以って、人間社会の一員として役立って行けるのか、その信念を確り持つ事が非常に大事なのではと考えている。
志の低い処からは、低い山しか登れない。山の頂上を目指そうと思うなら、雲の上を目指してやっと頂上にたどり着けるのではなかろうか。「剣道は人間形成の道である」とするならば、先ずもって、最初の心構えを崇高な物にしておく必要があるのではと考えている。
先ず剣道を学ぶに、色々な方向性が有ると思う。我々市井の剣道家は、心栄えの良い、美しい剣道を目指そうではないか。
その為には、姿勢に気をつけなければ成らない、姿勢に気を配れば、当然着装が乱れていれば、良い姿勢など得られない。着装の乱れは心の乱れとさえ言われる。
美しい剣道を目指すなら先ず自分の姿勢と着装に気を配る事だと思う。
次に、人間としての嫌らしさからの脱却。打たれて感謝、謙虚さを学ぼうではないか。
打たれずに打ちたい。誰にでもある我だと思う。だが、それが前面に出る程、醜い事は無い。打たれる事は誰でも嫌いだ。正直、今の熊でも嫌いだ。だが打たれ るには必ず理由がある。打たれたことを謙虚に認め、何故打たれたか、その理由を探求する事で初めて上達と言う道が切り開らかれる。打たれて敵愾心だけ燃や している間、道は閉ざされたままだ。
打たれて、悔しければ、悔しいほど、謙虚に認めた方が道が広がる。そして、打たれても崩れない姿勢でありたい。身体は打たれても心まで打たれれば益々惨めではないか。
打たれる瞬間、姿勢が崩れると言う事は、完全に心まで打たれたという証だからだ。
美しい剣道を目指すなら、崩れない事だ。崩れた姿勢は当然醜い。それは醜い心が表れたからに過ぎないからだ。打たれたくない。その醜い心だ。
次に竹刀は刀の代用品だと言う事を忘れないで稽古しようではないか。
正しい握り方で正しい竹刀操作を心がけ、当てるのではなく、刃筋正しく打つ(切る)と言う観念を忘れない事だと思う。そうする事により、冴えた正しい技が学べて、剣道の神妙な所も学べるようになると思う。
最後に気力旺盛に元気良く、思い切りの良い稽古を心掛けようではないか。
打つ打たれるに頓着せず。思い切り良く打って出る。中途半端な打ちからは捨て身は学べない。気力の無い稽古からは強さは学べない。年齢差、体力差は有るかもしれないがその中でできる限りの気力を振り絞り、溌剌と稽古に取り組みたい物だと思う。
先ずこれらの事を自分の心に言い聞かせ、強い意思を持って取り組む事をお勧めしたい。この心構えで剣道に取り組む事から必ず進化があり、上達が望める物と確信する。