先日、剣道大会会場において、アメリカの剣道七段の先生から相談を受けた。
形について質問が在るという。
その内容は、剣道型の教本(ビデオ)を見ると、解説と、行われている形(演武者)と食い違いがあり、生徒に教える時に困る。どちらが正しいのか?
彼が言うには「構えあった時は、刀は横手、と横手が接する間合い。其処を一足一刀の間とするならば、其処から打ち込まなければ成らないはず。だが、実際の画面では打ち間はもう少し、近間になっていて、生徒から、質問が会って困った。」のだと言う。
私は、彼に、諭した。「剣道形は、型で捉えるととんでもない事に成りますよ。なぜなら形は生き物です。お相手の強い、弱いで間合いも異なれば、機会と言うのは、万人全て捕らえる感覚が異なる。剣道形は、機を見て打てとあります。
若し、仮に機会が無ければ打ち込めないはずです。ですから、型にはめ込んで覚える型は初心者の形で、一応こ高段者に成れば、間、機は生きていなければ本当の形にはならないのではありませんか?」と言っておいた。
昔、大昔?中山博道範士と、斉村五郎範士が形を打たれた逸話が在る。
斉村範士が若かりし血気盛んな頃で、天下の中山博道範士にチャレンジ?した逸話である。
日ごろから、居合いも、杖道も、剣道も達人の中山範士は本物か如何か試そうと思われたらしい。
剣道形をお二人で打つ事があり、当然、先輩格の博道範士がウチタチを勤められた。シタチの斉村範士は、打つべき処を変えて打った。
処が、博道範士はそれをものの見事に、受けてかわされたと聞く。
いま、そんな形を打てる方は殆ど存在しないであろう事は、想像に苦しくない。
詰りその時、お二方が打たれた方は真剣勝負、生きた形で在ったからこそ、出来えたことではなかろうか。
その後、博道範士は、二度と、斉村範士と形は打たれなかったと聞くし、シタチを好んで打たれたとも聞く。
形が真剣勝負であればこそ、間、機会、は生きていなければ成らない。昨今お目にかかれる形は、「型」になり、「形」をお目にかかる機会が少なくなった気がする。