スランプ、良く聞かれる言葉だ、SLUMP=暴落、不振、人気が下がる、興味を失う。と言う意味合いであるが、何故スランプになるのだろうか。
昔、熊の師匠はスランプは日に何度でもある、と言われた、そして又、稽古毎に有る。
とも言われた。熊は高校生の頃一時、何故だか足が出なくなり、面が打てなく成った。
其れがスランプだと思っていた。
だが、24歳で剣道を再開してから、今まで剣道に於けるスランプを感じたことが無い。
昔、大阪府警の全日本を制した、現八段に聞いたことがある、スランプは如何乗り越えるか、彼は「ただがむしゃらに掛かり稽古をするだけだ」と言いました。彼らにもスランプはあるか、有った、と言うことだろう。
彼はただ何も考えずに、無心に成ってがむしゃらに身体を掛けることで、脱却を図った。成りきる事に徹したわけだと思う。
最近勉強させてもらっている、書物の中に、こんな言葉を見つけた。
「一生行き詰まりを見せぬ事」とあり、
「志業は其の行き詰まりを見せづして、一生を終るを、真実の心得となす」
と書いて有った。
つまりスランプになるようでは駄目だということになりはしないか。
だがある人に言わせれば、勉強、研究をしているからスランプがあるのだと言う人も居る。
どちらも正しいのだと思うが、今、自分を振り返れば、剣道は楽しくて楽しくて、勉強をしなければ成らない事が多すぎて、正直スランプに成る暇がなかった。と言うのが今熊が自分で実感している事だ。つまり、スランプの持つ意味合いの「興味が失せなかった。」だからだと思う。
スランプを感じるのは自分の心だ、出きると思う事が出来ない、其れが壁であり、スランプと言うことだと思うが、其れは全て自分の心が感じる事である。
出きるはずが出来ない、だがこれは、出きるはずだ、と思いこむところに落とし穴があるのでは無いのだろうか、つまり焦り。焦りが、スランプに追い込む落とし穴では?
出来なくて当たり前、だから努力をしていく、と考えていれば、スランプは無い。
出きるはず、希望的観測、が出来なくて、落ち込む事になる。
出来なくて当たり前、だから努力をする。これは落とし穴が無い。まだ未熟、まだ未熟と、学び続けるからだと思う。学び続けるなら一生、行き詰る事がない。
未熟は何も恥ずる事は無い、未熟を知りその為の努力をする方が、尊い行為では無いのだろうか、行き詰る事の無いように、絶えず興味を持ち続け、前向きに努力をしていきたいと、書物に有った言葉に勇気付けられた。