昔、小川忠太郎先生は剣禅一致を説いておられた。
禅も、剣道も三昧の境地、なりきること。を説いておられた。
とつとつと、話される、話が結構難しいので中々理解しがたい話が多い。おまけに禅問答的な答えしか返ってこないので、尚更理解に苦しんだ。
そして、とどのつまりは、相打ちだと仰る。相打ちなら自分の勝ちは無い。
こんな理不尽な教えはあるものかと、軽い反発も覚えた。
それから30年の月日が流れて、今の自分にもようやくそのあたりが理解できるように成ってきた。
三昧、なりきること=必死、真剣に成る事。集中力極限を引き出す事。
相打ち=打たれる腹を括る事。打つ打たれるの我欲を捨てて遣れば良い。
体の、動きは数掛けて慣れるしかない。これは誰でも出きること。
健常者であれば、良し悪しは別として数さえ掛ければ習慣になる。
習慣にさえなれば、考えずとも出きるようになる。要は良い動きだけを癖にすれば良いだけのこと。癖になるまで遣れば良い。
だから剣道は、動きを体にしみこませ、打たれる腹をくくり、集中力の極限じょうたいを、うまく作り上げられれば、良いことになる。
30年も掛けて学んだ事にしたら、中身は非常に、シンプル。簡単で単純な事だった。出きる出来ないは別にして、此処だけは理解できた。
いやはや遠回りした事よ・・・・・・・・・