秘 傳
世の諺に、秘事は睫毛と同じであるというように、睫毛は目のすぐ側にあるけれども、自分で自分の睫毛は見る事が出来ない。鏡に写せば見る事が出来る。
その鏡を手に取って睫毛を見てみなさいと言うのが、秘事である。
判ってしまえば別に何も難しい事ではないけれども、自覚の無い人に自覚させる事を秘伝というのです。
これらは皆、先師の教え導きによるものです。
だからこそ、仏様も十万億土とも言い、或いは又、娑婆即寂光土とも言っておられるのです。すなわち迷う時は遙か彼方の非常に遠い所となり、理解すれば自分が生きているこの世界が取りも直さず、煩悩の惑乱も無く常住不変、静寂の光明世界となる。
剣術の修行も、秘事を伝えるというけれども、教わった事を少しも疑わずに修行していけば、必ず大成するのは疑いの無い事なのです。
こうした理由から、少しの事を伝授するにも身を清め、大将を用いるのに壇を築き、斧鉞を授けたりするのは、教わった事をおろそかにしない為なのです。
今ここに師友のない人のために、剣術修行の方法を書きます。
決していいかげんな気持ちで読んではいけません。
例え先生に従って学んでいても、相手がこうすればああしろ、ああすればこうしろと伝授しても、まさかの時は一つも役に立たないものです。
人も自分も手は二本しか無く、やろうとする事も大体同じであるから、自分の思うようにばかりはならないものです。これを形兵法と言います。
剣術は瞬間に心に感じて手で行うのです。いくら約束稽古が上手でも役には立たない。こうすればああする、ああすればこうするなどというのは全部虚となってしまいます。
そこを理解し自分で出来るようになる為には、いつも心がけて真剣に修行する事です。
その修行は、先生について朝から晩まで稽古に励むというようには出来ないだろうが、先生や仲間がいないからといって、稽古にならないという事も無いものです。
その証拠に、例えば源義経は剣術が上手であるが、その義経には先生がいないのです。或いは天狗に教わったとも言われており、又、猿を相手に稽古して極意を得たとも伝えられているが、これらは作り事と思われます。
しかしながら猿を相手に、というのは作り事ながら、独り修行の参考となる話です。
ある人が猿を飼っていて、この猿を竹刀で突こうとした所、猿は飛び上がったり、くぐり抜けたり、又は竹刀の先を掴んだりしてとても突くことが出来なかった。
ある日、猿を突こうとしているところへ、下女が来て声をかけたので、おうと答えながら突いたら簡単に突く事が出来てしまった。
ここを理解して欲しいのです。
ああしよう、こうしようと心の中に企みがあれば、鏡に影の写るように隙が出来て失敗してしまうものてす。
中国の明の時代の詩人、李攀龍(りはんりょう)という人は、
李白が詩を作るときは用意をせず当意即妙に作って、名詩を読んでいる、と評しているように、その場になって思案工夫をするのは返って悪い事なのです。
この話にある「用意をしない」という意味は、いつも心掛けているから、その良い所が直ちに現れるのだという事を知っておきなさい。
ひとり修行の仕方
ひとり稽古といっても、一人で飛んだり跳ねたりばかりしていては、稽古にならない。だからと言って「突」を立て立木などを相手にしても、死物だからこれも役に立たない。とにかく生きているものを相手にするのでないと稽古にならないものです。
兄弟、又は近所の子供などに頼んで、相手になって貰いなさい。しかしこれも初めの二三度は面白がって相手になってくれるが、その内、あきて来て嫌がるものだ。
昔、中国が北方から侵略して来る遊牧民族と戦った時、遊牧民族の方が弓が上手であった為、何とか中国の兵士にも上達させようと練習させたが、さぼってばかりいて一向に上手くならなかった。
そこで或る大将が考えて、射当てた者に、どこに当たったら幾ら、ここに当たればこれほどの賞金を出すと決めたら、兵士は勇んで自分から練習に励み短期間に弓の上手になってしまったという話もあります。
こんな例もあるので、相手をする子供にも一本打ったらこれをあげる、二本打ったなら何と、菓子・絵・扇子などその子の好きな物をやって、毎日修行するなら子供たちも段々面白くなってきて自ら励むようになるものです。
例えば十八~二十歳ぐらいの人が独り修行をするなら、自分より体の小さい、力の弱い十四~十五歳ぐらいまでの者を相手にしなさい。
自分と同年令位の人は打ちも強く、初心の段階では持て余す事になるだろう。
相手が子供なら叩かれてもそれほど痛くないし、対応し易いものだ。
まず二人とも面・小手・胴をしっかりと身につけ怪我の無いように用心して、こちらからは少しも打たず、相手の方から打ちでも、殴っても、突いても好きなように攻撃させ、こちらは、或いは受け、又は外しだけを行う。
このように稽古していると、初めは十本が十本とも打たれるけれども、何度かやる内に、十本のうち八本打たれ、それから五・六本になり、最後には十本が十本とも当たらぬようになるものだ。これが最初の稽古です。
只、このような稽古だけをしていると、先手を取る事が出来なくなり、互角の相手に逢った時には勝つ事が出来ない。
だから次の段階では、先手を取って打つ事を重点に稽古するべきです。
でも、狙う事は良く無い。狙って打とうとすれば、隙が出来るものです。
遮二無二に打ち込んで当たらなければ、相手から一旦離れ、直ちに左右面でも続け打ちに打って行きなさい。このような稽古をすれば次第に相手の隙が見えて来るものです。
又、‘後剣’と言って、先手を取って打ち込んでも、相手は打たれながらも、こちらを打つことがあります。その‘後剣’を受け流して打ち込む稽古もやりなさい。
これらは、聞いただけでは出来ません。修練の上に修練して出来るまでやりなさい。
但し、相手は自分よりも弱い子供であるから、そーっと、軽く撫でるように、やわやわと打つ事です。強く打って痛い時は懲りてしまい、もう相手になってくれぬものです。
両方とも稽古を重ねて互角になったら、互いに強く目一杯打つようにしなさい。
先々・後先・先後先の大事
互いに立ち向かい会って、ちらりと見える虚(きょ)に打ち込む。これが先の先です。この場合、後剣は来ないものである。間に髪をいれない所だ。
この虚は、少しの時間で実(じつ)になってしまう。毛筋ほどの間です。
相手が先手を取って打ち込んで来るのを受け流し、返す刀で討ち取るのは後の先です。こちらからの打ちを、相手が受け流して打つのを、さらに、或いは引き外し、又は流す刀で打つのは先後の先です。
剣術の業は千変万化であるから、勿論これが全てでは無い。
只、その名称を書いて、大体こんな事だと説明しておきます。
場合の事
場合とは、相手と自分と立ち向かい会ったその間の事です。
その距離が遠かったら刀は届かないし、近ければつっかかって自由に動けない。
しかしその距離が、どれくらいの距離が適当かを決める事は出来ません。
よく稽古して、自然に自分で感知するべきである。
これを“水月の矩(かね)”という。
※水月の矩 「水月は、立ち会いの場の座取りなり」、「一足一刀の間」
目 付
試合の勝ち負けに最も大事なのは、目の付け所です。
目の付け所は、相手の眼中である。心に思った事は、眼の中に現れる。
孟子様は、「人物の善悪を見分けるには眸子をみれば良い、眸子は心中の悪を隠す事は出来ない」と言っておられます。
剣術も全く同様であり、心で何かの思いが起きれば、必ず眼に現れます。
眸子とは、瞳の事です。瞳がちょこっと動く瞬間に打ち込む、これが剣術第一の秘伝である。常に心がけて置くべきです。修行を積み重ねなければ出来ないものです。
長短の矩
人には体格の大小があり、刀にも長いのや短いのがあります。
自分より身長の高い人と稽古すると、刀が届きかねるものだ。その上相手の刀がこちらの頭上へ強く来てしまう。このような時は、踏み込んで戦うべきであります。
道歌に、
大浪の さきに流るる 栃殻も 身を捨ててこそ 浮かむ瀬もあり
刀の長短も、また同様なのです。
試合の心懸
初めての試合に臨む時は、まるで戦場で敵に向かって行くのと同じように、胸がどきどきするものであるが、何度も度重なれば、慣れてしまってなまけ心が発生し、遊びようになって行くものだ。
いつまでも初めてのように慎重に、初心者といえども大敵に向かっていくように少しも侮らず、又、物凄く強い人とか自分より勝っている上手であっても、恐れず危ぶまずに稽古しなさい。
又、稽古する場所が変われば、心が改まるものです。他流と試合するにも、いつもの慣れた場所だとやり易い、相手の稽古場へ行くとやり難いものだ。
機会があれば、出来るだけ場所を変えて稽古するべきです。
同じ人と度々試合をする時は、互いに癖が分かっているからやり易いものだ。
入れ替わり、立替わり大勢の人と稽古するのが良い。
だから、時々は他流と会って試合したほうが良いのだけれども、どうかすると稽古が目的だという事を忘れてしまって、勝ち負けだけの争いになってしまう事があります。
こうした事は修行の本当の目的を知らないから起こるのです。
昔は、武者修行という事で諸国を廻って稽古した事もありましたが、他流と試合をする時でも、謙虚に礼儀を尽くしてお願いするものであり、絶対に争いはいけない事でした。論語にも「君子は争う所無し」(君子は何事にも争わない)とあります。
さむらいというのは君子なのですよ。主君や家族の為に修行する剣術なのだから、修行するという事こそ第一の目的です。だからつまらない事で争ったりしてはいけません。
「その争わざるを以て、天下よく是と争う事なし」と老子様も書かれています。
例え、人が争いを仕掛けてきても、貴方が謙虚に譲る心を守って争わなければ、その人は逆に恥ずかしく思い、貴方に従うようになるでしょう。
これがさむらいの一番大切で必要な心懸けなのです。
試合をした時、本物の刀なら勝ち負けは直ぐ明らかに分かるけれども、竹刀の場合は当たった、当たらなかったと争いになる事があります。
けれどもお互いに、自分の心では良く分かっている筈なのです。
だから当たったのに当たっていないと言われたとしても、取り合う必要はないのです。
道歌に、
人問わば あるを無しとも 言うべきが 心に問わば 何と答えん
気の扱い
気は、自分のものであるが、自分で自由には出来ないものです。
勝負にあっては、気が一番重要と口ではいうけれども、実際の打ち合いとなったら思い通りにはいかないものだ。
心が広々としており体が健康であれば、気が満々と体に一杯になっているという事です。孟子様は「浩然の気」を説明して“義と道によりて飢ゆる事無し”と言 われております。道理から外れず、義を守れば、天下に恐れなければならないものは無い。このような気持ちが、浩然の気を養うのです。
剣術も同様に、修行を積み重ね、正しい術を身に付ければ、体中に気が満々と一杯となって怖いものは無くなるものなのです。
気の置所
気の置き所は、痃癖元(けんびきもと)である。
※痃癖(けんびき又はけんぺきと言い、頸から肩の辺りのこと。盆の窪の辺か?)
真夜中や、深い淵に臨んで、気持ちがぞーっとするのも、痃癖元である。
狐や狸に化かされたりするのも、ここである。気は痃癖元に集め、心は臍下に置くのが良い。目で思い、腹で見ると言う事がある。工夫してみて下さい。
このような事は、修行を積み重ねなければ判らないものです。口で教わったり、書物を読んだぐらいで理解できる事ではありません。
普段からよくよく心懸けて自分で身に付けるしかないのです。
相気の先
双方が体気を満々と一杯にして立ち会っている状態を相気といいます。
孫子は「よく戦うものは、鋭気を避ける」と言っています。
従って、相手の気力が充実して鋭い時は、避けなければならない場面ではあるが、ここで退こうとしたりすれば付け込まれて、こちらは受け太刀となってしまい、攻撃する事が出来なくなり負けてしまう。出も退きもならない、どうする事も出来ない場所である。
その上、稽古場が狭ければ進退も自由にならない。
とにかく剣術は受け身の時は、不利な事が多いものだ。
思い切って、必死になって打ち込んで、当たらなければ離れて、又左右上下をどんどん打ち込んでいけば、自然に相手に隙が出てくるものだ。
その隙を打つ事を相気の先と言う。
逆に相手にこのように攻撃される事の無いようにしなければならない。
入身の心得
諸流の中には、入り身を特徴とする流儀が沢山ある。
長剣であろうが短剣であろうが、刀が触れた瞬間に入って来る。
大抵は入られた方が負けるものだ。身体のすぐ傍まで攻め込まれ、詰め寄られては打つ事も出来ず、後は組み打ちしか無くなってしまう。
しかしながら、入り身は一人以上の敵は相手にし難いものだ。
だから必要以上に稽古する事は無いものです。
相手が短い竹刀で入って来ようとする時に、真っ直ぐに面を打てば受け止めて入って来てしまうものです。
このような場合、左右の肩・脇を打ち込めば、短い竹刀だけに相手はどうしようもなくなります。しかも入り身を得意とする剣術者は、あまり業の数は持っていないものです。
相寸の場合は業は持っていると見ておかなければいけない。
相寸とは、双方の竹刀の長さが同じであるという事をいいます。
入り身を得意とする人は、大抵、青眼か、下段か、斜(脇構え)に構えるものです。
これも又、日頃から心懸けて修行する事です。
独り修行の仕方
独り修行のやり方は前に記しました。
子供を相手にし、少し業が使えるようになったら同輩の者を相手にします。
柔弱な者ばかり相手にしていると、業も上手く使えるようにならない。
だんだんと大きな人や力の強い人と稽古するのが良い。
剣術に限らずどのような芸事も、先生が教える事は基本的で一定なものであり、相手の動きにより種々変化し、その都度新たな対応を創り出すのは自分自身です。
教えられたからといって身に付くものでは無いのであります。
以心伝心、すなわち教える方と教わる方が無言の内にお互いの心を通じ合わせる、ということですから、先生がいてもいなくても極意を得るという事は結局は独り修行である、という事を良く知っておいて下さい。
真妙剣
どの流派にも真妙剣と名付けるような極秘の剣がある。
身を清め、礼を尽くして教わる大事である。軽々しく教えて貰えるような事では無い。
このように、重んじ貴ぶ心がなければ、その教えをいいかげんに聞かれてしまう。
そうなったら教えた甲斐も無いではないか。
緊張し、真剣に先生の教えを聞くべきではないか。
ここまで記してきた事は、誠に恐縮することではあるが、田舎で先生も友人もいないけれど、それでも何とか剣術の稽古をしたい人達の為に、止むを得ず独り稽古の方法を書いた訳であるが、関連して真妙剣とはどういうものか示しておきます。
これを読む貴方にだけ教えるのですから、絶対に誰にも言ってはいけませんよ。
「真」とは、偽りや飾ることの無い、真実である事を言います。
「妙」とは、神の起こす奇跡は不思議であり、誰も予測したり言葉で説明する事は出来な い、すなわち、心に感じて、心で理解し、自然に体や手が動くという事です。
道歌に、
妙の字は 若き女の みだれ髪 ゆう(言う)にゆわ(言わ)れず 解くに解かれず
というのがあります。この歌を読んで考え、理解しなさい。
そうは言っても、真妙剣というのは、特別な剣の名称でも無く、形の呼称でもありません。教わったからといって、忽ち上手になる訳でもありません。
長い期間、一生懸命努力し稽古を積み重ねて初めて「あ々、これが真妙剣と言うことか」と判るものです。
本当に、秘密にしておかなければならないほどの《名剣》なのです。
この事について、初心の人に事例を一つ挙げます。よくよく考えて理解して下さい。
例えば、双方が満々と気の充実した状態で立ち向かってガンガン打ち合う時、いずれかに一瞬の隙の出た所を、間に髪を入れず修練の剣があたるのが石火のようである。
これが、真の真妙剣です。
自分自身が心の中であれこれ準備した事も無く、そんな事さえ思う事もなく、又、偶然でもないから、相手はこのような打ち込みに対処する事が出来る筈もないのです。
石火とは、金属と石を打ち合わせれば、その瞬間に火が出る様子をいいます。
金属と石の当たる瞬間に火が出るのは、間に髪の毛一本入る隙間も無い程の勢いという事です。偶然というのはまぐれ当たりという事です。
そして、何かをする前に心の中であれこれ準備をしていると「人が私を見るというのは、私の心の奥底を見られているのと同じ事だ」という聖言があるように、全部相手に分かってしまうものなのです。
「真妙剣」というのは本当に有り難い名剣なのです。
志のある人は、よくよく修行して身に付けられるようお祈りします。
さて、私は幼少の頃から剣術が好きで、日夜忘れるという事がなかったけれども、家が貧しくて先生に就いて学ぶという事が出来ず、生活に追われるままに空しく年月を過ごしてしまった。
中年になった頃、教えてくれる人がいてその教えに従い稽古に励んだが、月日の経つのは早いもので、私も今年で七十二歳、杖に助けられてようやく日常の用を足している程で、武芸の稽古なんかは諦めざるを得なくなりました。
しかも稽古した年数も少ないのですから偉そうに言える事など何も無いのです。
昔、或る先生が不老不死の術を教えていましたが、入門する人が多くいましたし、その効力を得た者が少なくありませんでした。ところが、不老不死の術を教えていたその先生が、まもなくぽっくりと死んでしまったという事がありました。
この話は、その先生が偽りを教えていたという事ではありません。
どれだけその方法を知っていても、自分の身に付けていたか、付けていなかったかという事なのです。
私も又、自分で出来るからこの本を書いたのだとは、お願いですから思わないで下さい。
寛政十一年十一月 御免
あとがき
武道の名著の現代語訳第二号「剣術獨修行」が漸く終わった。解放感に浸っている。
この本を読み進むうちに良く分かった。
つまる所、剣道上達の秘訣は、次の通りなのだという事を。
一、真剣に学ぶ
二、良く考え工夫する
三、一生懸命稽古する
四、以上の三つを継続する
何の事は無い、「三磨の位」と「継続は力なり」という事だ。
強いて一言で言えば、身体で覚えるしかありません、という事か。
しかし、凡そ剣の道を志す者は、皆、長年努力しているのは間違いない。
かくいう自分もその一人のつもりであるが、それでも強くなれないのは、三つの中の何かが不足しているという事であろう。猛省。
二〇〇〇年十二月十五日
剣道教士七段 坂井 旭