Canada Youshinkan Kendo Dojo

猫の妙術 後編

昔、私の住む町の隣の村に一疋の猫がいました。
一日中眠っているかボーとしているかで、まるで木で作った猫みたいでした。
誰もその猫が鼠を取ったのを見たことがありません。ところがその猫のいる近所には鼠は全くいないのです。猫を違った場所へ移しても同じ様に鼠がいなくなるのです。
私はその猫の所へ行って訳を聞きましたが、答えてくれません。
四回も尋ねましたが、四回とも答えてくれませんでした。
良く考えてみると、これは答えなかったのでは無く、どう答えて良いか分からんという事だったと思います。そして知っているものは言わない、言うものは本当の事を知らないのだと言うことに気付いたのです。
その猫は自分という意識を持たず、ああしよう、こうしたいとも考えず、全ての執着・拘りの無い心境となっておられたのです。これこそ「神武にして不殺」すなわち神のごとき武勇を持ちながら、その武勇を使わずに使ったのと同じ効果を挙げるという事です。
貴方がたがまだ私の段階まで来ていないように、私自身もまたこの猫の段階には全然近づけていないのです。
勝軒は夢のようにこの会話を聞いていて、寝床から出て来て挨拶しこの古猫に頼んだ。「私は随分長い期間剣術を修行してが、今だにどう考えれば良いのか分からなかった。
今夜皆さんのお話を聞いていて、どの様に取り組んでいけばよいのか分かったような気がする。お願いですからもう少し詳しく教えていただけませんか。」
古猫は、いやいや私は獣です、鼠は私達の食料なのです。どうして獣の私が人間のしようとすることを知っているでしょうか。しかしながら私はいつか聞いた ことがあります。それは、剣術は他人に勝つ事だけを習練するのが目的ではない、もしも大変な事態が起こった場合、自分の事を省みず速やかに適切な対応が出 来るようになる為に剣術を修行するのだと。さむらいたる者は、いつもこのような心掛けで剣術を修行しなければいけない。そのためには先ず、自分の身の安全 などという事は考えず、偏った考え方をせず、疑ったり、思い迷ったりせず、ああしてやろうこうしてやろうなどと考えず、いつも穏やかで物事にこだわらな い、静かなそして安らかな心と気持ちであれば、どんな事に出会っても自由自在に適切な対応が出来るものである。
この心に少しでも何かの気持ちがあれば、形になって表に表れる。
形として自分というものが表れれば、それの対極に相手がある。自分と相手が対立すれば争う、そして勝ちたい負けたくないという事になる。
このような気持ちになった時は、瞬間の変化に速やかに適切な対応をし続けるということは出来ません。心が暗闇に落ち込んで何にも見えなくなってしまいます。
どうして気持ち良く明解な勝負が出来るでしょうか。
こんな状態で仮に勝ったとしてもまぐれ勝ちというもので、本物の剣術ではありません。但し、心に何もない状態と言っても、只の空っぽということでは無いのです。
心というものは元々形は無く、物を蓄える事もできないものです。
少しでも蓄えようとした時は、気もそこに片寄りする。
気がすこしでも片寄りする時は、臨機応変の処置を取る事は出来ない様になります。
出ようとすれば出過ぎるし、出ようとしなければ全く出れない。出過ぎる時は勢いがありすぎて止めることが出来ないし、出れない時は全然役に立たないということで、どちらも適切な対応が出来ないという事です。
私が言っている心に何も無い状態とは、蓄えず、片寄らず、敵もなく自分もなく、状況に応じて対応し、対応し終わると同時にまた何も無くなってしまうという事です。
易学では、妄りに思うこと無く、むやみやたらに何かをしようとしない時は、心の中はひっそりとして静かに動かず、動かないために真実の事が良く見える為、天下の出来事について何でも本当の事が分かる様になれると言います。
こうした道筋を理解して剣術を学べば、どんどん本物の剣術に近付く事が出来ます。
勝軒は「どうして相手も無く自分も無いという事が必要なのか」と聞いた。
古猫の言うには、自分があるから相手がある。自分というものが無ければ、相手もいないことになるではないか。元々両方が向かい合って立つから、相手という ものが出てくる。陰・陽、水・火、というようなもので、大体形の有るものは必ずそれに相対するものがあるものだ。自分の心に形が無ければ相対するものは無 く、相対するものが無ければ争う事も無いという事になろう。これが相手も無く自分も無いという事です。
あれこれ考えたり、こうしたい、ああしたいなどと思う事が全て無くなった澄んだ心の状態の時は、争わず自分と相手が一つになります。
例え相手に勝ったとしても自分は知らない。いや知らないという事ではなく、勝とうと意識する事無く心の命じるままに動いただけなのです。
あれこれ考えたり、こうしたい、ああしたいなどと思う事が全て無くなった澄んだ心の状態となった時は、世界は自分のものなのです。
自分自身に対比するべきものが無いから、良いとか悪いとか、好きとか嫌いとかという事に捕らわれる事がありません。苦しい、楽しい、得した、損したなどという様々な思いは、全部自分の心から出て来るのです。
世界は広いといっても、自分の心以外には本当に求める価値のあるものは無いのです。
昔の人は、『眼の中に少しでもゴミの入った時は眼を開く事が出来ない。
元々、もの(ゴミ)が無いから眼を開けて良く見る事が出来るのに、ものが入るから見る事が出来なくなってしまう』と教えています。
又、こんなふうにも言われています。
『仮に千万人の敵と戦って自分の体は粉々になってしまったとしても、心は自分のものでありどんな大敵といえども私の心をどうこうする事は出来ない。』
そして孔子様も言われている。
『人間の志はその人だけが左右出来るもので、例え誰であろうとも第三者がこれを奪うことは出来ない。』と。
もし、心が迷う時は、この迷う心が却って相手を助ける事となってしまうのです。
私が言えるのはここまでです。ひたすら自分を省みて自分に求めてください。
お師匠はその技術を伝え、道筋を教え知らせるだけなのです。
自分の真実の心を見つけられるのは自分しか無いのです。
これを自得と言います。以心伝心、教外別伝とも言います。
お師匠の教えに従わないという事ではありません。お師匠も貴方の心まで教え伝える事は出来ないのです。
こうした事は只禅学だけに言えるのではありません。古来の聖人の心法からどのような芸術の末端に至るまで、自得するという事は全てこの以心伝心、教外別伝 によるものです。 教えと言うのは、元々自分が持っているけれども、自分が持っている事を分からないものに、あー、なーんだ、自分が持っているじゃないか と気付かせてあげるという事なのです。決してお師匠からこれを与えられるものでは無いのです。
さらに言えば、教える事は簡単だし、教えを聞く事も簡単な事なのです。
只、元々自分が持っているものを確実に見付けて、自由に使えるようになるのが難しいのです。
これを見性(けんしょう)と言います。見性とは禅修行上の最も重要な点の一つで自性(人間が生まれながらに具有する仏の本性)を余す所無く見るという事です。
悟(さとり)とは、睡眠中の嫌な夢から目覚める事によって解き放たれるように、道理に合わない頑な想いから解放される事です。
覚(さめる)という事も同じで、違った意味ではありません。

(田舎草子巻下終)

あとがき

昔、今は亡き小川忠太郎範士から初めてこの「猫の妙術」の話をお聞きした。 その後、いろいろな剣道雑誌や講演録でも何度も眼にしたし、自分では良く知っているつもりでいた。
この度、思うところあって読み直して見て、実は良く理解していなかったという事が改めて分かったのである。そして今度も一読しただけではやっぱりよく分からん。 何となく感覚的に分かったようになるが、自分で説明しようとすると全然出来ない。 そこでどうせ読むなら、中学生でも理解できるように読み取ってみようと試みたものである。
原本は格調の高い、流麗な文章であるが、如何せん古文・漢文はもとより、更には、 孔子、孟子、易学、禅学、仏教用語まで駆使して記されており、殆ど一言一句毎に辞書で漢字を調べ、意味を読み取ったものである。 出来るかぎり原本の記載を忠実に整理した為、同じ事を何度も繰り返したり、幼稚な言い回しの箇所もあるが、あくまでも原文を現代文に直訳しただけのつもりである。 末尾に原本を添付しておくので、道に志す人は是非原本を読まれる事をお薦めする。
この訳文が適切かどうかは読む人にお任せする。 今回の読書で自分なりに理解できた事を基に一層修行に励み、何時の日か今度は解説書を作れる様になりたいと念願するものである。

二〇〇〇年十二月吉日

剣道教士七段  坂井 旭