Canada Youshinkan Kendo Dojo

打たれに来る

今から15年位前になるか、羽賀の親父がマダ元気で稽古をつけてくれていた頃、熊が掛かっていくと、いとも簡単に出鼻を打って取られてしまう。
何故なのだろうと愚問を聞いてみた。何故あんなに、簡単に出鼻が取れるのか、親父が言うには、「お前が打たれに出てくるかただ。」と言われて、悔しい思いをした思い出が在る。

その意味合いが、15年経った今、少しずつでは有るが、何となく分かりかけてきた気がする。
それはどう言うことかと言うと、人間,誰でも打ち気にはやる時は、瞬間的に目クラに成る。詰り打とうとする瞬間に筋肉が硬くなるのだ。
其処を狙えば以外と簡単に打てる事が理解できるようになって来た。勿論、剣道をする人それぞれに到達しているレベルがあり、格差は当然あるのだが、

それでも間違いなく、どんなレベルの人であろうとも打とうと心が動いた時は硬くなるのである。
ただ、その腕前により格差が在るということは、硬くなる瞬間が少ない人が上手な人であり、沢山出る人が初心者なのだと言う事なのだと思う。

大 いなる気勢で打ちかかる。その中にも、懸待一致が求められて、その中で、溜め、見切りなどが要求されてくるわけだから、可也高度な判断を瞬時繰り返さなけ れば成らない。その上、肉体の筋肉コントロールまで、遣らなければならない訳であるから、筋肉を硬直させないで相手に対処できる位に成るのは不可能に近い わけだ。

だから昔から、どんな名人でも打つ瞬間は隙が出来ると言われる所以なのだと思う。

剣道の稽古は肉体的に、いついかなる時でも難さが出なくなれば技術的に完成だと言う事になるのだと思う。勿論、その為に、心の問題、にも、触れて修行しなければ理解は出来ない
でなければ、不動心、平常心、などと言う言葉の必要性も無くなる。

打たれに来て(行って)いる間は、剣道修行が続く。それを完全に克服する為に人間は剣道を通しての修行をしているのだと思う