Canada Youshinkan Kendo Dojo

猫に小判

猫に小判、どんな意味に使われるのであろうか、猫はお金の使い方を知らないから、小判を持たせても無駄だ、と言う意味なのか。

だが、良く店に飾って在る招き猫には小判を持たせて在るものが在る。何か他に意味が在るのだろうか、不勉強な熊には分からない。

昔、小川忠太郎先生と話をしていた時、3歳の赤子が、禅の高僧と出合ったとしても、そのお坊さんの徳は分からない。と言われたことが思い出される。
詰り、猫に小判と言うのと同じなのではと考える、だが、これは何も赤子とだけは限らない気がする。

我々が学ぶ剣道、お互いに相対して、其処から学び合う物、それは、大変に奥深い物が在ることは疑いを持たないが、では、その奥深さをどれだけお互いが感じあい学び合えるかと言う事に成ると、一寸,待ったを掛けなければ、話は出来なく成るのではなかろうか。

剣道人の会話の中で、良く耳にする言葉で、お互いが剣先で物語をする。剣先で話し合う。と言う話が出る。これはお互いの力が在る程度拮抗しているから話し合いも出来るのだが、若し、力の差が大きい場合は話し合いも何もあった物ではないはずだ。

我々が日ごろお稽古を頂く中で、お相手の方々から何かを学ばせて頂いている訳だが、その学び方を知らない人がお相手に来たら、それこそ話し合いには成らない。

だから、剣道は、どんな相手の方とでも遣れば良いという物でもないようだ。だが限られた中でのお相手、その方たちにも話し合いの中に参加していただける努力も必要になって来るのだと思う。

剣道は、何だかんだ言っても、お相手がいなければ、剣道には成らない。この辺にいつも難しさを感じてしまう。

だから、段々出稽古に行かなくなるのだと思う。自分の道場の生徒なら話もして聞かせる事ができる。
だが他道場では気をつけないと、其処の先生の顔を潰す事にも成りかねない。

先生方が、剣先での話し合いの意味すら分からない連中が先生をしている事が多いからだ。

だが先生としての変なプライドだけは持っている。だから熊から学ぼうとはしない。熊に良いカッツコウされるのが嫌なのだ。だから此方も無理には出かけない。そんな煩わしい思いをする位なら、一人稽古の方が余程身に付く。

前回日本から有名範士がカナダに来ている事を、噂で聞いた。熊の処には何の連絡も無かった。だがその範士は熊とも顔見知りだから、カナダに来ているのに、 挨拶が無かったなどと言われたら、心外だから、出掛けてご挨拶をさせていただいた。

熊は、千葉範士がお見えに成る事はカナダ西部、シアトル近郊の道場主全員に連絡をし招待をした。
それが剣道家の礼儀だと信ずるからだ。剣先での話し合いをする前に、剣道家としての礼の心から学ばせねば成らない程格差が在る。猫以前、そんなカナダの西部地区で熊は剣道をしている。