Canada Youshinkan Kendo Dojo

負けから学ぶ

剣道を修行する人の中で、恐らく試合を一度も経験した事が無いと言う人は皆無だと思う。熊も子供の頃から幾多の試合を経験した。

その中で何度か優勝した事もあるが、不思議と勝った時の相手が誰だったか余り記憶に無い。だが負けた試合相手は未だに思い出される。

中学の頃どうしても勝てない相手が居た。強い相手ではないが、何故だか苦手意識が先立っていた。高校二年に頃にやっと苦手な彼に試合で勝てた。その後は負けなかった。その事は未だに記憶にある。その相手の名前、剣風すらも記憶にある。

特に、優勝戦までこまを進めて負けた場合は尚更記憶に残っている。通常の試合でも負けた相手は何故だか記憶にあるのは何故だろう。

悔しいからだろうか、勿論、其れが一番大きいとは思うのだが、記憶の中で、何故負けたのか、何度と無く反省して、次に備えようとしたからではないのだろうか。

八段審査でも、一時を通過した時のお相手の方は全然記憶に無い。だけど、二次でお相手頂いた方々は殆ど記憶にある。何故か落ちたからである。

そう考えると、人間は負けから学ぶ事が非常に多いということになる。勝ちからは何故だか学ぶ事が意外と少ない。得意の絶頂に有るからだと思う。

ご存知の如く剣道修行は、自分との戦いだ。試合とて、仮にお相手が居るだけで、ことのつまりは自分との戦いなのだ。気迫、集中力、捨て身等、考えてみても全て自分が遣らなければ成らない事ばかりだ。

ところが不断の稽古、自分との戦いであることに気づいている人が意外と少ない。大人になり、自分で稽古は楽に遣れればやったに成るし、誰もとがめたりはしない。

良く、仕事で稽古が出来ないとこぼす人が居る。こぼした所で自分の環境がよくなることは絶対似ない。この人はすでに自分に負けて居ることに気付いていないだけだと思う。

自分が負けそうに成った時こそ、自分を奮い立たせて、前進しようではないか。

剣道は自分に負けていたら絶対に進歩は無い。自ら望んで剣道を通じて修行を始めたのであれば、自分に負けないことを第一の主眼にすることだと思う。

負けは自分で作るのだと言う事をもっと知ろうではないか。