Canada Youshinkan Kendo Dojo

「独善的、稽古の意味」 

稽古=古を鑑みる。先人、賢哲の辿った道を考えて、自分に生かす。「温故知新」の意味もあると、昔、榊原正範士からお聞きした事がある。当に其の通りの意味なのだと思う。

だが、熊は頭が悪いから、もっと簡略に、端的に考えてみた。

つまり、自分になぞらえて、「自分の古い出来事から考える。そしてそれから学ぶ。」と置き換えてみた。

そしたらそこからはなんと簡単に「反省、工夫」と言う文字が出てきた。

宮本武蔵の言葉に「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負け無し」と言うのがある。と言うことは、自分の稽古に当てはめれば、「打たれるには打たれる理由がある」
と言うことに成ると思う。

それなら何故、打たれたかを考えれば、自分が打たれた原因が見えてくる。其の原因を探し出すことが出来なければ、永久に自分の欠点が解らないのと同じではないか。

今まで、沢山の剣友と剣を交え、教えを受けてきた。つまり沢山打たれてきた。と言うことは、何故打たれたかを研究すれば、自分の欠点、至らぬ所、未熟を発見できるのではないのだろうか。

これが、まず修行の第一歩、修行の原則なのだと今は考えている。

自らの不足を知り、それを矯正していく。これが修行の第一歩。それを何処まで続けていくことが出来るか、途中までか、死ぬまでか、それが修行の原点だと確信している。

これは、稽古を頂いた先生に自分の稽古のアドバイスを聞くよりもっと効果が上がる気がする。

なぜなら、稽古を頂いた先生から、どんなに素晴らしい、アドバイスが頂けたとしても、本人がそれを仮に自覚できていなければ、何ら効果が無いからである。

熊の先輩に、真面目の権化のような人がいた。だが其の方は非常に進歩が遅かった。
稽古は良くされたが、上達が遅い。なかなか癖が直らない。
自分では不器用を売り物しておられたが、熊はそれは可笑しいのではと思うに至った。

羽賀の親父が「不器用な人は、頭の使い方が悪いのだ」と喝破されたことがある。
つまり、「頑固、頑迷」謙虚に反省、工夫出来ない人が不器用な人という事ではないのかと思う。

自分を省みる能力、それを磨く努力こそ、稽古の意味だと今は思っている。