Archive for 11月, 2008
日曜日, 11月 30th, 2008
昨日、11月29日にカナダ西部地区の剣道昇段審査が行われた。養心館は五段に二人挑戦した。男性26歳一人、女性?一人。
事実、道場で自分が稽古を受けていて、まだ少し早いかな、という感想を持っていた。其れは本人たちも知っている。
所が審査と言うものは蓋を開けてみなければわからない。五段に九人受験者のうち、一人は満票,もう一人は1票欠けただけで合格した。三人が合格したのだが、一人は、お涙合格と言われても仕方の無い内容だった。
一票欠けた、女性の出来も何で一票が欠けたのか熊には解らないほど完璧といえる立会いでした。
まあ、こんな事を書いたらしかられるかもしれないが、周りが余りにも弱すぎたのか、そうではないと。思うヤハリこの日のこの二人の出来が抜群に良かったと言うことだろう。
男性の相手は、同い年のチームカナダのメンバーだし、女性は10歳も若い女性と対戦して、一本もさ触らせもしないで、完璧な技を4本5本と決めた。二人目は試合で活躍している巨漢の男性である。
其の巨漢が打った面を応じ胴で返し、おまけに真っ向勝負で、真面まで打ち切った。丸で不思議な世界を見ているようだった。
人間神がかりと言うことがあると聞いているが、昨日の二人はまさに其の状態。
まあ、其の神がかりを引き寄せたのはヤハリ本人たちの日頃の努力だろう。良く熱心に稽古はしている。これから如何成長していくか、二人とも死ぬまで剣道を続けるらしいから、楽しみな事だ。
タケノリ、くりちゃんおめでとう。
11月 30 2008 | 新着情報 | No Comments »
日曜日, 11月 23rd, 2008
若い頃、真剣に居合を抜いていた。今考えればアホとしか言いようの無い事まで粋がってやっていた。二尺七寸五分の古刀の大太刀を抜いていたこともある。
其れは教えを頂いた、正岡一貫九段範士が、小さい体にも拘らず、若い頃二尺七寸の長い刀を抜いていたと、話されていたことも刺激になった。工夫次第では長い刀も抜けるという事を実践して見たかった。
通常、江戸時代の平和な時代は刀は二尺三寸五分が定寸とされていたから、可也長い刀を抜いていた事になる。
何故そんな長い刀を抜いていたのか、それには単なる粋がるというだけではなく、居合の創始された時代を考えてみたかったからである。
ご存知のように、日本刀は時代時代で刀の造型スタイルが異なる。戦闘時代の刀は豪壮で大振りなものが多い。又、平和な時代は華奢な優雅な作りの物が多い。
其れが刀を鑑定する時代の判断基準になり、其処から色々の特色にあわせて、鑑定を進めていく事に成るのだが、自分は刀はあくまでも道具だから、時代のリクエストにより、造型が成されたであろうと考えた。
戦闘時代は、其れに耐えうる刀が要求されたであろうし、作るほうも丈夫な刀を作る努力をしたであろう事は間違いが無いと思う。
又、居合を使う兵法者はそれなりに使いやすい刀を作らせたのでは無いのだろうかと考えたから、色々の刀を抜いて実験してみたかかった。
つまり、居合も刀も時代により変革をして来て新たな技の開発に繋がったと言う思いがあったからだ。事実、居合が創始された室町時代は太刀から、刀えの移行期でもある。
太刀は刃を下にして腰に吊るして佩いた。馬上からでも抜きつけて切ることが要求されていたと考えられる事が出来る。当然太刀は吊るしてあるので、長くても抜くことが出来た。
だから、居合でも古いとされる、ホウキ流には下から抜きつけて切り上げる技がある。
江戸時代に入り、刀は刃を上にして帯にさす。帯にさす事で、使い方にも工夫がされ、一つの文化に繋がって来たのだと考えた。
こんなことを考察する事で、現代剣道も、江戸時代後期、竹刀、と防具が考案されて飛躍的に盛んになった。こんな時代背景を鑑みるのも剣道の再発見に繋がり楽しさを倍増させてくれると考えている。
11月 23 2008 | 熊のつぶやき | No Comments »
土曜日, 11月 22nd, 2008
昨夜は、風が吹き荒れた。雨の量が少なく、大荒れになるとの予報を幾分裏切った形になったが、被害が無かったのだから其れは良し。
日本でも台風一過、と言う言葉がある如く、今日は良い天に成った。快晴とは行かないが雲間に見える青空が遠く透き通って見える。枯葉は可也天に舞い、地に落ちた。葉の無い梢が 青空に、細い鉛筆を準えたように絵を描いている。
先日の稽古は20名を越す集まり、賑やかだった。最近、稽古で拘りを持ち取り組んでいる課題がある。
左手を出来るだけ納めて、心の動揺を抑え、強い攻めに転ずる其の効果を倍増させる試みで取り組んでいる。
熊はどうかすると、何でも遣るときに極端にやりすぎることがある。今回も、左手を納めることを意識するあまり、左腕のふくらはぎを左胴に軽く接触させておいた。
所が其れが丁度稽古着の袖の筒と重なっていたようで、ふくらはぎの一部が擦れて皮がむけた。おまけに左手の指が痙攣するくらいに疲れた。
別に余分な力を入れて握っていたわけではない、軽く握っているだけなのだが、意識が其処に働いているためか、手のひらの筋肉、指の筋肉に精神的、神経的負荷が可也掛かっていたようだ。
だが稽古の内容は、面白いくらいに意気が高揚して、溌剌とした稽古が出来た。だから攻めの気は可也出ていたようである。生徒も一段と燃えて稽古をしてくれた。
稽古後、外は寒さが増しているにも拘らず、稽古着が久しぶりにズッシリと汗で重くなった。
自分の稽古が出来ているとは思わず、ナンダカンダ工夫をして見れば、良い悪いは別にして、それなりの発見はある。
だから剣道は面白い。
11月 22 2008 | 新着情報 | No Comments »
金曜日, 11月 21st, 2008
熊が今まで審査を受けてきて、其のつど武者修行で全国を回って、各地で、当時の審査員をされている先生方から受けたアドバイスや注意等。
意外と自分で知っている積りが出来ていない事が多い。それらが原因で審査が不利になるのであれば改めたほうが良いと思うのでここに書いてみます。
着装、稽古着は、色褪せの無い、袴の襞が確りした、色落ちがしない物を着用する。
背中は脹らみを作らないで、体にフィットした物を着る。
(袴立ちから手を入れて、背中の皺を必ず伸ばし背中を平らにしてておくこと)
袴は前下りに履く。(袴を着用してから、垂を〆たら、両足つま先で、袴の前を踏んで伸ばしておく、それで前下りになります)
袴の長さはくるぶしの線を境に、前下り後ろ上がりになる様に履くこと。
垂は体の真正面に前垂が来るように、確りと〆る。
胴は左右片がりの無いように、紐が演武中に解けないように、腰紐は蝶結びで、後ろにだらりと、あまらせない様に確り結び、着装する。
面紐は縛った長さが縛り目から40CM以内、で左右同じ長さに切りそろえておき、紐がよじれたまま縛ったり、鉢巻が二重にならない様に気をつけて縛る。
手拭は頭の上に完全に折り込んで置く。面の外、後頭部からヒラヒラ出ているのは良くない。
面垂は自然に肩に下がるのが望ましい。面布団両端が跳ね上がるのは良くない。
審査場に出入りのとき、前の立会いの止めが掛かった瞬間。自分は正面に礼(30度)をして、前進して、前者と肩を並べて互いの礼(15度)をする。
其の後、審査場に進み出るときは気迫の篭った態度で、必ず摺り足で、足の指は上げない事。
三歩目で抜刀しながら蹲踞に入り構えるが、其の時竹刀を殊更刀を抜くような仕草や、頭の上から回して構えることの無いように、腰の位置からそのまま構えに移るようにする事。
竹刀の柄革は古く伸びた状態の物は使わないこと。
構えたとき右手が、鍔から離れすぎるのは良くない。せいぜい離れて居たとしても指1~2本の範囲にする事。
柄頭が左手の握り後ろに出て見えるのは良くない。
立会人の初めの号令で立つが、其のとき、少し前に出る気持ちで構える。右に開いて立つのは、相手の気迫に負けて其れを避けたと見られる。後ろにさがって立つのは其れでもう気迫で負けを認めたようなもの。だから必ず、ジリジリと前に出て構えること。
気合を掛けるのは、昔から、ヤ~、トウ~、エイ。との教えがあり、自分の気持ちを奮い立たせて、腹に力を込めるにはエ~イと声を腹の底から掛けたほうが力が溜まる。相手を馬鹿にしたような、掛け声、若しくは、ホレホレ、とかオリャ~、ホリャホリャ~、等、変な抑揚のある掛け声は好ましくない。
相手より、先に声を出すか、後から出すか、は自分の気迫の意味合い、先に行くか、受けて立つか、気分の持ち方で異なる。
立ち会って、直ぐには打たない。立会い15秒位は攻め合いの中から自分から攻め崩すか、相手を引き出すか、相手の出方を慎重に緊張感を持ち視察する。早く打つことは焦っていると見なされる。
立会いの初太刀は審査の最重要ポイント。完全な一本に成るように打ち切ること。、打つ場所には拘らない。面、小手、胴、突き、完全な1本なら、評価される。
飛び込み胴等、姿勢の崩れる技は出さない。被き技等は相手をだまして打ったと見られて、あまり印象が良くない。
勿論、被き技だろうが、飛び込み胴だろうが、打たれればダメ。
相手の打ちに姿勢を崩されて除けてでも評価が悪くなる。あくまで、体裁き、竹刀裁きで対応すること。
審査の場合、思い切りの良い勢いのある捨てきった技で1本になる技が出せるかどうかが重要な鍵になる。だから足は非常に大事。
立会いが終わっても気を抜くことなく退場すること。
まだまだ細かい点を書き出せは限がありませんが、大体こんな所は十分に注意して改善されることをお勧めいたします。
11月 21 2008 | 剣道考察日記 | No Comments »
金曜日, 11月 14th, 2008
剣道は何のために学ぶのか、昔から、無心、無念無想の境地、等と言われている。それを学ぶために、習得する為に学んでいるといっても過言ではないのではなかろうか。
体の健康、運動面、精神衛生的な目的だけなら他のスポーツがある。自分の体を打たせ、相手の体を打たせていただいて、其の刹那、瞬間、瞬間に去来する、心の葛藤。誰もが思うであろう、打たれたくないが打ちたい。何とか勝ちたい。それは、欲望の塊である。
それらは、無念夢想の境地、無心の境地等とは完全にかけ離れている考え方だ。それどころか、恐らく完全に逆方向的思考ではないのだろうか。
では何故、剣道を通じてそんな逆方向的発想で、無心、無念無想等の境地を学ぼうとするのか。一見無駄にさえ見える方法を何故先哲達は此れを利用してきたのだろうか。
熊は逆に、瞬間瞬間の刹那其の判断をいやがうえにも強要されるて、それが難しいからこそ、あえてこの方法で先哲たちが選んで、学んできたのだと思っている。
難しい方法だからこそ遣り甲斐がある。簡単でないからこそ成就の暁には本物に近づくことができる。そんな心理が働いていた様に想えるのだ。
昔なら、負けは命を落とすこと、打たれれば最低でも怪我は免れない。すなわち、それは、恐怖との戦いでもあった。其の恐怖の打ち勝つためには、無欲、無心、無念無想でなければ成就できないことを先哲たちは知っていたのであろう。
欲を離れて、物事に取り組むと不思議と上手く行く。心に欲を抱いて取り組むと不思議と上手く行くものが上手く行かなくなる。
商売を遣りながら、剣道に教えられることの大きさに感謝している。剣道の教えはそのまま人生に活かせる。又其の効果が絶大なことにも驚かされる。
欲から離れて商売をすることで、全てが上手く回っている。利益はお客様が運んでくれる。
商売は儲ける為に遣るものと勘違いしている間は本当の利益は掴め無いのかもしれない。
世界一の大金持ち、マイクロソフトのビルゲイツ氏は自分の収入の殆どを世界のために寄付している。そ言う感覚の持ち主だから、自然に利益が転がり込んでくるのだろう。
如何に、われわれ剣道を学ぶものは素晴らしい教えに基づいて人生を送ることができるか、無欲闊達。剣道修行が人生に活きる。
何ともありがたい事だ。
11月 14 2008 | 熊のつぶやき | No Comments »
木曜日, 11月 13th, 2008
最近、生徒の集まりに、バラつきがある。先週末は連休だったので、集まりが悪かったのかもしれないが、6名と少なかった。
ところが昨夜は20名を越す参加があった。カナダはどうも、日曜と言うと、休みの日は、休みで何もしないと言う風潮が有るようだ。だから連休、中日の日曜は、参加が少なかったのだろう。
さて昨夜は、他道場の指導者で、今度六段に挑戦する人が出稽古に来た。彼の息子が熊の道場に出稽古に来ている関係で、彼の奥方に言伝をしておいた。
審査の前に一度稽古に来て見ては如何かと、それで、昨日で稽古に来て頂いた。彼は日本で修行してきた背景があるので、稽古振りは悪くない。
特に変な癖も無く、変な業の使い方もしない、どちらかと言えばオーソドックスな剣風に近い。
そこで審査前に一度、細かい点で、気づくことがあれば、アドバイスしておいたほうが審査では有利になるだろうと考えた。
通常、剣道をしていて、良い指導者に恵まれない場合は、えてして細かい所の指導を得られないまま過ごして審査を受ける方が多い。
それが原因なのか、最近の全剣連の六段、七段審査を見ても一見、6%~8%と厳しさを増している。何故、厳しくなったのか、実は、厳しくなったのではなく、細かい所が不備なまま受験する方が増えただけなのだと聞いた。
結果厳しくなっているように見えるだけなのだと聞いた。自分の気配りだけで治せるところを知らないまま受験して落ちる、こんなくだらないことは無い。
着装、立ち居振る舞いや、基本的な事が纏まっていて、剣道の実力がそこそこ出せれば誰でも合格できるのだと言うことらしい。
剣道の実力以前に落とされるケースが多いのだと聞いている。それを防ぐ意味できてもらった。
稽古の後、二、三、気の付いたことをアドバイスさせていただいたが、どの様に受け取られたかはわからない。
稽古後、タケノリとクリちゃんが形の稽古をしていて、熊が駄目出しをした点など見ていて理解されたか、見る人が見ると、観点が違うことが解っていただけただけでも、刺激になったのでは無かろうか。
良い稽古だけに、細かい点を直せばもっと簡単に実力向上できると確信する。出稽古にさえ来てくれれば、アドバイスできるのだが・・・・・
11月 13 2008 | 新着情報 | No Comments »
日曜日, 11月 9th, 2008
先という事で、交剣知愛@MIXの剣友に熊の考えを書いた物です。
先について、こんな逸話が残っています。
京都の武専の先生をなされていた、佐藤忠三範士九段が武専の教本を、まとめる仕事をされた時、助手の方に言われたそうです。
「本当は先の一字何だけれども、昔から本には、先の先、先、後の先と書いてあるので、そう書いておきなさい」と言われたというのです。
つまり、佐藤先生は、全てが先だと仰っておられる訳です。
その先の状態で、相手が打とうとする兆しの前に、自ら出て打つのが先の先。
つまり自分からの攻撃ですね。攻めて面、払って面、など仕掛け技ですね。
相手が打って来る所に先んじて打って勝つのが先=出小手、出鼻面、抜き胴、など。相手の技の起こりの隙を突くのが先。
それで相手が打ってきたのを返して打つのが後の先、になるわけです。刷り上げ技、応じ技、返し技等ですね。
ですから、自ら先に打つか、相手が出てくる処を打つか、相手を引き出して後に打つか、打つ機会の見た目の現象で三つに分けられていますが、全て先が元になっていて、始めて功を奏するわけです。
つまり、先とは何時でも打てる。攻めの状態の持続だと言う事です。
先とは、何時でも打てる状態である事が先ず第一。攻めきっているのが先。ですから、打つ事其の物では無いのだと思うのです。その結果打つ事に繋がる。
攻めている結果その状況に応じて打突が出る。そのことが先になる。
若し、先を取る、と言うことの理解が難しいと感じられたとすれば、其れは攻めが充分に働いていないと言う事に他成りません。
お相手を攻めきっていなかった。攻めて追い込んだ状況に出来なかった。と言う事だと思います。
こんな極端な指導をされる先生が居られるくらいです。この言葉も中々味があります。
「先先の先は後の先である」此れも同じ意味だと解釈できます。
攻めきっているからこそ、相手が引き出せて、後の業も生きる、と解釈できる訳です。先の先も、後の先も一緒だよ、と言うことです。
11月 09 2008 | 剣道考察日記 | No Comments »
水曜日, 11月 5th, 2008
全剣連が、世界大会敗北後、骨太剣道教育と称して、日本代表候補選手に其れを実践してきた。
今年の、全日本選手権を見た限りでは、其の効果が絶大に出て来た様だ。
過去10年の選手権、三箇所除けのオンパレードで、気の抜けた試合は見ていてうんざりした。所が今回は、明らかに今までの選手権とは打って変わって、堂々とした渡り合いは、固唾を呑んで見守る試合が多かった。
三箇所除けが見られなくなったお陰で、試合の緊迫感が此れほどまで違ってきたことに驚きを隠せない。あれは完全なる逃げの動作だから、正々堂々戦うと言う剣道とは、かけ離れていた。
だから、熊は三箇所除けをしている間、又世界で負けるぞと、口やかましく警告を発してきた。 其の甲斐があったのかどうかは定かではないが、日本の先生方の中にも其れに気づいてくれた方がいたのだと思う。
今回、テレビの放映の2時間近くの中で一人だけ其れも一度だけ其の動作が見て取れた。他の選手は見事なまでに三所除けは出さなかった。
其のお陰だと思う緊張感が漂う、手に汗握る素晴らしい試合が多かった。
特に、前年優勝者の寺本選手対正代選手の攻防。最後の最後まで試合を捨てなかった、正代選手の逆転劇は,見ていて頼もしさを感じた。
負けたとは言え、寺本選手の崩れる事の無い剣道はそのまま初一本の捨て身の出鼻面に見事に反映されていた。勝負はそのまま1本勝ちを収めるかの思えたが、正代選手のフェイント気味の捨て身の諸手面に、一瞬心を固まらせてしまったようだ。
其の反撃の、余韻が消えないまま、諸手小手の速攻。サシモノ、チャンピオンも成す手が無いまま負け去ったが、試合内容は最後まで正々堂々の渡り合い。見事と賞賛したい。
其れと、優勝戦、20分の長きに渡る試合も、縁が切れることなく、端正な構えを終始貫いた、若生選手も見事と賞賛に値する。
剣道に勝ち、勝負に負けた、感があった。だが、最後に捨て身で面を打った正代選手。相手が小手に来る所を、出鼻に面にとんだ。
まさに剣道の真髄、「皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を断つ」を完璧に表現した打ちではなかっただろうか。見事としか言いようが無い打ちであったと思う。
そして、毎年、何やかやと物議をかもし出す、審判も、見事なまでに冷静に、完璧に裁定を下しておられた。
誰が見ても、納得せざるを得ない裁定は、此れもまた見事であった。審判に当られた先生方には心よりお疲れ様と賛辞を述べたい。
人間、やれば出来る。今回の試合を拝見させていただいて、剣道本来有るべき姿に帰依した影には、日本代表選手の方々に厳しい態度で臨まれたコーチの先生方に並々ならぬ努力が窺い知れた。
此れでこそ、世界の見本と成りうる、日本伝剣道ではなかろうか。日本にも、心ある先生方が真剣に取り組んで頂けたお陰で、素晴らしい試合を拝見できたことを心から感謝したい。
11月 05 2008 | 熊のつぶやき | No Comments »
火曜日, 11月 4th, 2008
11月3日、1500m級のバンクーバーの山々に初観雪。晴れ間から顔を覗かせる、山々が、寒さに震え出したかのようだ。
日曜日の稽古は、久々に20人を越える参加者があった。其れも4段以下の連中。5段以上は誰も参加者が無い。苦笑。恐らく、インターネットを通じて、全日本を観戦していたのか???
昨日、カナダ時間時間3日の午前11.15頃から全日本選手権がカナダでも放映された。前年度優勝の寺本選手対正代選手の行き詰る攻防は、久々に、興味をそそられる内容であった。
今回、其れと、気づいた事。今まで熊が口をすっぱくして言ってきた、三箇所除けが見られなくなった事だ。ただ一人、一度だけ其れをやった選手が居たが、彼は着装も悪く、面紐が長く不ぞろいで袴も短かった。
一人面の取り方が雑な選手が居たが、放映されていたので、自分でビデヲを見れば気がつくことだろう。良い選手はそのあたりも確りしていた。
それ以外、観ていて不愉快を感じる試合が少なかったこと、いや若生選手の素晴らしい剣道は賞賛に値する。剣道に勝、勝負に負けたといって良い内容ではなかったか。寺元選手もそうであった。
優勝した正代選手の思い切りの良い気迫に満ちた剣道は、前回の世界選手権で日本選手に一番掛けていた所を、教えていたような気がする。
総じて、今回の選手権は、剣道本来の文化としての面を大事にした戦い、大いに賞賛されて良いと思う。閉会式で、選手全員が、胴着着用で整列していた事。以前は負けて帰った選手や背広姿の選手が居たが、今回は其れが無く、非常に観ていて気持が良いと感じた。
これは熊が20数年前から、唱えていた事だ。其れと、今回、何と言っても審判が非常に確りしていたと思う、クサイ打ちは旗を揚げず、誰が見ても納得できる裁定を下していたと思う。
日本伝剣道文化を、再発見させられた今回の、選手権。日本伝剣道まマダマダ地に落ちては居なかった。嬉しい一駒であった。
11月 04 2008 | 新着情報 | No Comments »
土曜日, 11月 1st, 2008
京都大会や、東京剣道際等で、高段者の立会いを拝見する機会があると思う。
若しそんな機会が無かったとしても、高段者の試合くらいは見る機会もあるのではなかろうか。
其の中で、此れはあくまで熊個人の見方なのだが、良い立会いとそうでない立会いの比較対照がある。
良い立会いとは何なのか、では悪い立会いとはどんな立会いを言うのだろうか。それは当然、人それぞれに見方が違うと思う。だが、演武者の個性にも寄るが、熊は一つの基準を持て拝見させて頂いている。
要は、演武者がどれだけ、真摯に、真剣に遣っているかどうかで決まる。意外と、本人は真剣に遣っている積りなのだろうが、其処には落とし穴が幾つもあり、見ていてがっくるすることが少なくない。
1 演武者の試合場の出入り、正しい礼法、正しい携刀姿勢、すり足で、気迫ある態度で、入場しているかどうか。先ず、此れができていない立会いは、あまり良い立会いが期待できない。
何故か、今から戦いに臨むものが、微塵の隙も、油断も有ってはならないのが当然で、其れすら出来ていない場合は立派な良い立会いができるはずも無かろうと思うからである。
2 蹲踞から立ち上がりが気迫に満ちて、剣先を合わせたとき、触刃の間から、交刃の間での攻め合いが見られるか。
お互いの気迫、集中力が高まっていれば当然、其処での相手の出方、攻めを感じられるはずだ、当然良い立会いならここでの真剣み、相手の動向を探る、慎重さが出ていなければ、単なる叩き合いの立会いになる事が容易に予想される。
だが、意外と多いのが、立ち上がり、行き成り、交刃の間に入り、そこで攻め合いをしているのが多い、此れは、此れは本当の攻め合いとは言えない。
早く叩きたいとの心の現われで、間合いが理解できていない。つまり、打ちたい焦りが見える訳だから、見ていて真剣みが伝わらない。だから、良い立会いにはならない場合が殆どだ。
3 十分な攻め合いがされているかどうか。平凡な立会いは、攻めが無いから、手数が多い。つまり無駄打ちが多い。良い立会いは真剣そのものだから、そう手数が出るはずが無い。真剣(刀)でたたきあいは出来ないからだ。当然、良い立会いは無駄打ちが無く、一発必中の太刀裁きが見られることになる。
一発必中の立会いは、攻め合いが充実していなければ、出来ることではないからだ。攻めが無いのは単なる叩き合いでしかない。攻めて相手が、崩れた所を打つから、決まるのである。
4 間合いを嫌い、後ろに下がる立会い。駆け引きで勝負をしようとしているので、上手さは見れても充実した剣道は見れない。お互い満を持して戦う。「お互い一歩も引かず」と言う言葉があるとおり、其れでこそ、本当に立会いの意味があると思うからである。
大体、こんなところを観点に入れながら拝見させて頂いている。剣道、見取り稽古とは、よく言われるが良い立会いを見て判断する能力が出来て初めて、得るものが多くなるのでは無いのだろうか。
其れと、此れだけは確実なのは、立会いが終わり、桟敷に戻り、其の後の態度が拙い人に良い立会が出来た人は皆無であること。意外と残心を忘れている人が多い。道場だけが立会いの場ではない。其のことも気を付けて見ていたら、面白いと思う。指導者としての格が有るかどうか、良い判断材料になるからだ。
11月 01 2008 | 剣道考察日記 | No Comments »