Archive for 6月, 2007

「前で捌け」

土曜日, 6月 30th, 2007

千葉仁範士が、ある人にアドバイスをする中で、非常に大事な教えだと、これは肝に銘じなければ成らない話が幾つか有った。その中で、迎え突きに関して話された。

勿論、熊もそのお考えに異論は無い。熊自身殆ど迎え突きはしない。極まれである。

千葉範士と稽古中に、迎え突きを、していた人が居た。
それも一歩引いて迎え突きをするのである。当然範士の面は先に届いている。

千葉範士の考えでは、突っ張りは、心の居付きと同じだと捕らえられて居るようだ。
本来、技は返すべきである。と言う考え方だ。

昔、高野佐三郎範士の教えで、ツッパリは技の止まり、と戒められている。
ツッパリ=迎え突きの事である。又、中島五郎蔵範士の教えで、「打つ太刀は返す太刀、返す太刀は、打つ太刀である」と教えられたと、佐藤博信範士から聞いた。

そのことでも解るように、迎え突きは出切るだけしない方が良いと思う。
確かに、剣先を中心に置いていると言う目的と、心が動かないという目的は確かにある。

だが、後ろに引きながら迎え突きをした場合、殆どが、打たれた後に剣先をつける訳だから、何等意味を為さなくなってしまう、打たれてしまった(傷付き、死んだ)後で本来剣先が着けられる筈も無い。

昔熊が榊原正範士に言われた、「迎え突きを練習するなら、前に出て突け」と教えられた。「前で突けば、相打ちか、若しくは突き勝ちである。後ろに引けば死体である」と

それらを鑑みるとやはり、迎え突きは前に出て、突かなければならないのだと思う。

だがやはり迎え突きは技の止まり、と言う観点からすれば、相手の技を出きる限り返し技で応じるべきなのだと思う。

又、千葉範士はこのようにも言われた、技は皆前で捌け、応じ胴ですら、前で捌くのが本当だ、全ての相手の技は前で処理しなければ、成らないとも言われていた。
事実、相手の技は、前で捌けば捌くほど、楽に決める事が出きる。

これは未熟な熊の経験からでも完全に裏付けられる事実だ。
全ての刷り上げ、打ち落とし、応じ返し、全て前で捌く。これに徹して、やりぬく信念が大事だと思う。

6月 30 2007 | 熊のつぶやき | No Comments »

打突は緊張からの開放だ。

火曜日, 6月 26th, 2007

この言葉は、千葉仁範士が、養心館の講習会で教えられた言葉の一つだ。イメージ的には素晴らしい表現だと、感動した。

これは剣道全般、全てに繋がり言える事だとも思う。
打突の瞬間。竹刀を振り上げ振り下ろす、 筋肉の緊張、その力を打突の瞬間に解き放つ。それで物凄い、勢いと、冴えが出る。
又、攻め、懸待の一致、緊張からの、一撃で捨てきる=開放。
溜め、見切りからの、緊張からの、一瞬の打突への開放。

脱力との関連も、この言葉で言い表されるではないのだろうか。

昔の古歌に、「振り下ろす太刀の下こそ地獄成れ、ぐっと踏み込め、後は極楽」と言うのが有る。
まさにこれに置き換えることも出来る。振り下ろす太刀の下。究極の緊張である。其処をぐっと踏み込む勇気で、開放される、恐怖感。
捨て身の境地を説いた歌だが、まさに緊張からの開放そのものだ。

こうして、一つ、一つの言葉に極意を見出し、それに体をかけて修行していく。
この修行も、一生懸かる修行の一つだと、心に秘した。

6月 26 2007 | 剣道考察日記 | No Comments »

「剣道形」

月曜日, 6月 25th, 2007

6月22.23日、千葉仁範士を囲む智仁会の方々が10名養心館でお稽古頂いた。
バンクーバー地区の各道場の三段以上に参加を促した。
養心館メンバー以外は、殆ど指導者クラスの参加で、講習会も開いていただいた。

23日は2時間にわたり剣道形の講習会。非常に解り易い説明で、多大な効果を上げる事が出来た。その中で、範士は、形はそれぞれの構え、動き、切る所、突く所が確りと決められている。だから最低限でもそれだけは覚えておかないと形には成らないと言われた。

確かにそうなのだが、しかし、全般的に見ていると、細かい所をうやむやのまま、形を打って居る人々が非常に多いことだ。恐らく、剣道形は、昇段審査でやらなければ成らないから、仕方なく覚えている。と言う程度でしか考えていないからだと思う。

剣道形の理合いを探求する所まで行かなければ本当の剣道形とは言えないのだが、
やはり範士の言われるとおり、最低限のカタチ、動きは完全にマスターしなければ成らない。

約10年位前に、楢崎、中西両九段の形を拝見して、その時も事細かにご指導を頂いた。
手に汗握り、冷汗を、掻きながらの講習では有ったが、次元の違った世界での剣道形は熊の心の財産になった。

今、日本でも剣道形は重要視されておらず、海外の方が形を確り学んでいると聞いた。
某アメリカ人が、日本に形を習いに行こうと計画を立てていたら、彼の剣友が形なら、ヨーロッパに行った方が良いとアドバイスされたと言う。

笑うに笑えない、話が、昨日まことしやかに日本の先生方の中で話されていた。
それに、お稽古は頂いた先生方から、もう一つ笑えない話が出た。
カナダ側の指導者は、殆ど気剣体の一致が出来ていないと。
お恥ずかしい話なのだが、カナダでは、そんな人々が剣道を指導している。

剣道を普及する事は大切な事だが、普及すればするほど、本物が消えていくそんな切ない思いも感じぜさるを得なかった。

範士は又こうも言われた、剣道で打つ打たれるやってる間は剣道ではない。
一太刀、一太刀魂を込めて、一拍子で打ち切る、捨てきる修行をして初めて剣道に成ると。

とにかく色々と再認識させられた稽古会であった。心から感謝である。

6月 25 2007 | 熊のつぶやき | No Comments »

一刀で捨て切るという事

日曜日, 6月 24th, 2007

6月22.23日と二日間千葉仁範士にお稽古を頂いた。そして昨日の懇親会で話された言葉に、非常に大切だと思う事をご教授いただいたので自分の為にも書き記しておこうと思った。
此処からは範士の言葉である。

「剣 道で、打つ打たれるを遣っている間は剣道ではない。相手の中心を攻め、その中に相手の心が動くところが有る、其処にきたら、一拍子で、捨て切って打ってこ そ剣道に成る。打たれまいとして、相手の剣を避けたり、姿勢を崩して逃げて打たれずに打とう、等と、醜いことを遣っていてではダメだ。そんな物は剣道とは 言えない。
ここぞと見たら、思い切り一拍子で打って出る。それで返されたら、反省できる。それを ゴジャゴジャにしてしまうと反省に繋がらない。だから、進歩が出来ない。」

まるで日ごろ熊が口にしている事と、〃ことを口にされた。
この話を聞きながら、七段と八段の断層を見たような気がした。

この一拍子で捨てて打ち切る修行を理解して出来る人が八段に成れる。
それが理解できないで、打つ打たれるの段階で遣ってる人が七段で止まる。
その修行に気付いて体をかける人が100人に一人なのだと感じた。

それにしても打たれずに打とうと言う人が多い。今回の稽古会に参加された高齢の七段の先生が居たが、何時も範士からこの話を聞いて居るのですが、
人間が頑固で、叩かれるのが嫌な者ですから直りません。と苦笑いをされていた。

そして範士は、これは私が出来るということではないが、だから私もいまだ一生懸命それを追及しているのですと言われた。
剣道の究極の所はこれしかないのだと熊も強く思った。

6月 24 2007 | 剣道考察日記 | No Comments »

「思い入れ」 

金曜日, 6月 22nd, 2007

何事でもそうだと思うのだが、その人の思い入れの強さで、物事の進み具合、上達の進化が変わるのだと思う。一口に剣道が好きだと言ってでも、必ず其処には個人差がある。

又その思い入れの個人差は、測りで測れる物でもなく、誰にも解らない。
だが、その思い入れが強ければ強いほど、人間は努力をするし、体を掛け時間を掛け工夫もするのだと思う。

剣道で、あの人は強い。剣風が良い。風格がある。などは、全てその剣道をやるご本人がが如何剣道に取り組んできたか、その思い入れが表面に出てくるだけの事なのだ。

最近、「昇段審査に合格する本」的なインスタントな本が出回りすぎているような気がする。本を読む事だけで、剣道が出きるのであれば誰も苦労はしない。本は勿論読んだほうが良いと思うが、大事なのは其処に書かれている良い所を如何に実践していくか。

この実戦が無ければ、単なる頭でっかちに成るだけで、逆効果に成る恐れすらあると思う。安易に、努力もしないで、段がトントン拍子に昇段するはずが無い。
それでは剣道本来の持つ、鍛錬と言う目的が無くなってしまうではないか。

情報社会、情報がありすぎて、どれが本当か解らない。だが、物事の本質は天地自然の理に反しては絶対にありえない。だから自然の理を求め、それを見極める努力をしていると、偽者と、本物の差が歴然と見えてくる。

そんな所にも、同じ剣道人としての思い入れの差が大きく作用してくるのだと思う、
折角、縁有って、剣道修行に志を持たれるのであれば、思い入れを強くして、天地自然の理にそむかない剣道を学ぼうではないか。

6月 22 2007 | 熊のつぶやき | No Comments »

剣道の強さは心の強さ

木曜日, 6月 21st, 2007

剣道、やはりその中に有るバロメーターは、何かといえば強さだと思う。
大昔、某範士が冗談で八段審査の事を話した事が有る。

今と違い当時の八段審査は剣風、風格を重んじていた。
今は。どちらが打てるか打てないかが基準になっている。

その時に、某範士が言うには、「審査のお相手は剣風が良く風格が在り、剣道が強くないのに当ると幸運だ」と言われたことが有る。

当時、三四段の頭では、成るほどと感心した記憶が有る。一見強そうで、実は強くない。 そんな人と対戦できれば幸運だという事だ。

誰の目に見ても強そうなお相手を、若し打ち込めたら、それは合格間違いが無いと思う。マア、これはあくまで冗談での話だが、単純に笑えないのが可笑しい。

そこで、剣道が強いか、弱いか検証してみると、宮本武蔵が素晴らしいことを書き残している。彼は真剣試合に望み、「神仏を尊み、神仏を頼まず」と喝破している。

処がこれの、「神仏を頼まず」だけ取り上げて宮本武蔵は傲慢だ、と言う人が居たが、それは間違いだと思う。

何故なら、武蔵は、先に、「仏は尊み、」という事をはっきり述べているからである。

これは凄いと思うのは熊だけでは有るまい。分かりやすく言えば、
神仏は尊い存在では有るが、物事を祈祷、お願いする存在ではない。ということをはっきり言っているのだ、と解釈している。

では仮に、年頭にお参りする神様は、お賽銭の上下で、お参りする人の上下を決めているのであろうか。若しそうなら、笑わざるを得ない。

むしろ武蔵は、真剣勝負は、神頼みよりも、自分を信じろと言いたかったのだと思う。

では二人の剣客が、〃神様に、同じお賽銭の額でお祈りされたら、神様は 如何決断して勝敗を決めるのであろうか。
そんな矛盾を、諸共せずに、喝破しだに過ぎないと思うので有る。

ということは自分自身が強くなければ物事は解決、勝を得る事が出来ないのだという事に、なりはしないか。

神頼み、されど神頼み、自分の心の弱さを神に祈るのは一番卑怯な遣り方だと熊は考えている。

自分のことは自分で解決するしかないのだと、自分に言い聞かせている。

だから剣道も心構えが軟弱では、目的達成など夢のまた夢。勝 は得られない。

6月 21 2007 | 剣道考察日記 | No Comments »

「左手のパワー」

日曜日, 6月 17th, 2007

範士クラスの先生方と稽古をしている時、剣先の争い、中心の取り合いに意識して稽古をすると、左手が痛くなることを経験した方が少なからず居るはずです。

若しその左手が痛く成った経験が無い人でしたら、この話は解らないかも知れません。
マダそのレベルにまで達していないと言う事ですので、左手が痛くなるような稽古をして頂きたいと思います。

昔から、剣先が利いている、剣先の攻めが強い、等と言う表現がありますが、その攻めや剣先の強さを司るのが、左手のパワー、納まりだと思うのです。

江戸の昔、先生方がよく言われている事なのですが、剣先から火が出る。剣先から輪が出る。等と言う表現にも現れているのですが、剣先から気が出て、剣先に勢いを感じ、剣先が利いている、剣先が強いと言う事に成るのだと思います。

ではどうしたら、剣先が強くなり、剣先が利いてくるのか。
恩師、榊原正先生の本の中では、丹田の力が左腕の裏筋を通り、左手の小指から竹刀を通り剣先現れる。といわれています。

これは実際現在自分の一つの課題として、何度か実験していて、確かにそうだと言う、確信がもてた事でもあるのですが、左手の小指、薬指を軽くしめて竹刀を 持ち、下腹部前に左手を落ち着かせ、丹田に気を集め、長呼気、短吸気で稽古をすると、剣先の攻めの強さが、俄然威力を増す事が解りました。

勿論、攻めなどと言う物は目にも見えませんし、相手が如何感じるかだけの事ですが、
毎回稽古をしている高段者がその攻めを感じて、大変だったと言ってくれました。
そして彼が今日は左手がギンギンに張った。とも言ったのです。

左手が痛くなる、それは相手の剣先の攻めに対して、自分も負けじと剣先を張って居るからに他成りません。つまり剣先の争いで、左手が疲れてくる、それが痛みになって出てくるのです。

ですから、その剣先の争いが理解できていない人は、左手が痛くならない。
ただ構えているけど、丹田の力が竹刀に伝わっていない、それだけ小指が緩んでいるか、左手全体で竹刀を握り締めている為に小指の力が要らないか、だと思うのです。

丹田の力が左手に集まり、それから剣先に気の波動と成って伝わって行き、お相手に威圧感を与えていく。その為には、左手の小指薬指の締め方、臍前に納めかたが非常に大事になって来るのです。ですから、左手がヒョコヒョコ上下しているのは、余り感心しません。

左手が臍前の納まり、崩れなければ、構えも崩れません。
それが不動心の表れにも繋がります。心して取り組みたい課題の一つです。

6月 17 2007 | 熊のつぶやき | No Comments »

自分の稽古を見る

日曜日, 6月 17th, 2007

文明の発達は、人間本来の生きる使命。と言った人が居た。
確かに文明の発達は人間だけに与えられた特権、 文明の発展のお陰で人間は多大な恩恵をこうむっている。

我々剣道家でも自分の剣道が容易に見れる時代に成った。最初はビデオ、最近はDVDで簡単に見れる。

熊が一番初めにビデオで自分の剣道を見たのは、1982年の時、佐藤博信範士との稽古。当時6段。今観ても思う下手糞な 剣道です。

でも、それがきっかけで、最低でも一年に3~4回写して記録に撮って来ました。自分の過去の稽古記録は自分の修行の段階を事細かに再現してくれています。

そして、その時々の自分の課題も鮮明に浮き彫りにしてくれる。先ず自分の稽古を見て、下手だな~とは思っても、自分で良いな~と思った事がない。

それは何故、自分が理想としている師匠の方々の剣道と比較してみるからだと思う。
脳裏には鮮明に師匠の方々の剣道が、インプットされている。

自分ではそれに近づきたいと念じながら、稽古をしているが、比較してみると程遠い事が分かるからだ。

だから自分の課題も見つけやすい。何処が如何違うか自分の目で確かめられるからである。通常 、自分の稽古は自分で分からない。だから、簡単に妥協して大体これで良いだろうと、妥協してしまう。

だが、ビデオやDVDの画像は嘘は記録しないので、現時点の実力をそのまま見せてくれる。これは非常に参考に成ります。

自分の周りに良い指導者が居ない場合、ビデオを活用すれば良いと思う。
自分が上の先生と稽古した物、、したの人と稽古したもの、それぞれ必ず問題点が発見できるはずだ 。

自分で自分の問題点が分からなければ、自分の剣道の将来は無いと、諦めた方が良い。

なぜか、自分の欠点に気がつかないのは自分自身治しようが無いからです。
自分のイメージの中には、師匠や、憧れの剣士の残像が残っているはずです。
それと自分の稽古を比較してみればわかること だからです。

それが分からなければ何を勉強していいかも分からない。
だからビデオや、DVDを大いに活用すべきだと熊は考えています。

そのお陰で、常に師匠が居ないカナダででも、何とか此処まで自分の剣道を進化させながら、稽古を続けてくる事ができました。

ですから、全てにおいて、環境は無ければ自分で作り出すべきだと考えています。

6月 17 2007 | 剣道考察日記 | No Comments »

「構について」

木曜日, 6月 14th, 2007

剣道形には5つの構がある。だが実際は現代剣道では、上段、中断、中段の変形(平正眼)の構えくらいしか使われていない。勿論二刀の構も、有るのだがここの議題ではないので省く。

宮本武蔵は、五輪書地の巻きで、「構は構える為に有る物ではなく、打つ為の構に他ならない」と言う意味のことを言っている。

又、千葉周作は、品の良い構で、隙の無い構は十分な勝ちを得ることが少ない。
相手に打ち込ませるだけの隙のある構のほうが十分な勝ちを得ることが出きる。
だから形の構に隙を作り、心の構に十分油断の無い構で無ければ成らないと言っている。

つまり、千葉周作の構え論は誘いの構とでも言えると思うし、宮本武蔵は、構は打つための構えであって、身を守ることだけの構ではない。と解いているのだと思う。

良く、言われる事だが、上段は火の位。相手を呑んで掛かる構えが上段だと言う。だが中段の構えにした所が、相手を飲む気位で激しく攻め立てられる構えでなくては意味を成さない。

又、宮本武蔵は、構えなど如何でも良いとも言っている。有構無構の教えがそうだ。
構えありて構え無し。構えようと拘れば、それはもう既に死に体に成る。
構えているけど、構えなんかに頭(意識)を取られるな。と言っているのだと思う。

こうしてみると、構えとは、その都度その都度変化に応じて使い分けなければ成らないのだという事が解る。

時には誘い、時には強く攻めたたて、攻撃につなげる構え、だけどその構えに心を奪われる事無く自由な働きをしなければ成らない。それでなければ構えの意味が無いという事だ。

だが、その構えを意識しないで、自由闊達に構えを働かせる域に達するまでには、やはり形を作り上げなければならない。

その段階を踏まえて、超えて初めて、上に書いたようなことが出きるのだと思う。

剣先を何処に付ける、左手の位置、握り、腰の入れ方、足の踏まえ方、足幅、右手の握り、等など数え上げれば切が無いほどだが、やはり形を整えてから、其処に行かなければ効果は得られない。

たかが構え、されど構え。構え一つでも奥が深い。

6月 14 2007 | 熊のつぶやき | No Comments »

自分が思う剣道

木曜日, 6月 14th, 2007

人それぞれに自分で思い描く剣道のスタイルが有るものと思う。試合中心に考える人。精神修養の克てとする人。

私自身、大それた事が言えるほど、剣道を極めたわけではないので、大きな事は言えないのだが、どちらかといえば、剣道を通じて人間的に豊かに成りたいと考えている。

唯、最近剣道界を見渡すと、試合だけが重視されて、試合だけが独立して剣道そのものと言わんばかりの取り扱い方をされているのには少々辟易している。

どの剣道雑誌を見ても、試合結果にどれだけのページ数が割かれているかを見ても分かる事だ。残念な事だと思う。

確かに試合で克つというう目的の為に努力する事は尊い事だと思うが、その試合に勝たんが為に、剣道本来持つ、日本人の心までまげて、反則にならなければなんでもする、勝ち方は如何な物かと何時も不愉快に思う一人である。

だから今の剣道の試合には、正々堂々と戦う試合なぞと言うのは、殆ど垣間見れなくなってしまった。武士道精神の面影は今や試合剣道の中には見出せないくらいに堕落してしまった。

大体が剣道、何故三人の審判が必要か。理解に苦しむ。
剣道の稽古中でも試合中でも、打たれれば、打たれた本人が一番早く分かるはずだ.


武士道で、道を求めて剣道を学ぶ者なら、打たれたら謙虚に負けを認めれば良い。
なにも第三者の意見など必要がない筈だ。

試合中は極限の興奮状態だから、打たれたことが分からない人が居る、その為に審判が必要という人が居たが、本当にそうだろうか、先ず極限の興奮状態に成ること既に負けであるはずである。それを考えると、 理屈と膏薬は何処にでも着くということが分かる

少なくとも打たれて感謝、打って反省、という剣道本来の姿を自分の心の中においての稽古、試合ならば、審判は自己でやれば良い。

間違いだらけの多数決などに頼らなくても良いではないか。

それとも第三者に決めてもらわなければ自分で判断が出来ないくらいその方々はお粗末な剣道をしているという事だろうか。

自分が打たれたか打たれなかったか、自己の正しい心が在れば、自己判断で出来るはずではないか、

逆に審判、第三者が判定する事で、自分の心を否定されている事に誰も気付かない。哀れとしか言いようが無いではないか。

私自身も京都大会で試合?立会いにで出る。勝ち負けは問題ではない。剣道家が集まる、 目の肥えた、剣道家だけの中でいかに自分の日ごろの剣道ができるか、それを見極める為に参加をしている。

自分の勝ち負けを人に決めてもらう為ではない。
完全に打たれたと思ったら、審判が手を上げなくても、お相手 に頭を下げて引き返すであろう。

それが本来武士が学ぶ剣道だと思うからであるし、先ず打たれる前に負けが分かる。攻め 負けたら打つ必要も、打たれる必要も無いと思っている。

6月 14 2007 | 剣道考察日記 | No Comments »

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