Archive for 4月, 2007
月曜日, 4月 23rd, 2007
長々と、書いてきた構えも遂に最終章を迎えました。
今回腹構えについての考察を書いてみたいと思います。但し、この腹構えは、熊が出来ていると言うことではなく、今もって勉強中だということを予め申しておきます。
若し、読者の中で、熊の考えに異論の有る方が居られれば、是非お教えを願いたいと思います。
先ず、熊が剣道を通じて、学ぶべきものは何なのかと考えました時に、生死を掛けた戦いで、何時如何なる場合でも冷静沈着に、泰然自若とした態度で物事に向き合わなければならない事を学ばなければ成らないのではと思い当たった訳です。
小川忠太郎先生も「剣道は生死の境を明らめるもの」と教えられました。
としますと、「何物にも犯されない腹構えを作る」これが、剣道を通じて学ぶ最終章、目的ではなかろうかと思うに至った次第なわけです。
剣道で、腹構えを作るという事は子供の頃から漠然と意識はしていました。ですが、それにはどんな方法がありどうすれば良いのか皆目見当も付きませんでした。
ところが、有る一冊の本を師匠から頂いて読んだのが切欠でおぼろげながら其の概要が掴めたように感じ出したからなんです。
話は少し長くなりますが、熊の未熟な経験と、過去の話を書くのは憚られるのですが、自分の人生がそれで大きく変わり、今もこうして生きながらえて剣道を学べる環境に感謝しつつ、如何に其の本に人生を導き出されて来たかを書かせて頂きたいと思います。
事は1996年の事でした。事業で窮地に追い込まれていた時に、丁度カナダに指導にみえられていた、師匠がこれを読めと熊にくれた一冊の本。中村天風師の「成功への実現」
と言う有本でした。
其の中には、人間の命の根源、宇宙の大真理、気、心の持ち方、について、非常に分かり易く、説かれていました。読んでいて、命が洗われるような思いがしました。
窮地に追い込まれた熊に取り、それはそれはまるで天からの声に等しい物でした。
1998年京都八段審査初めて1次通過、二次に涙を呑みカナダに帰国して、腹部に異様な痛みを感じて、病院で検査を受けましたが、原因が分かりませんでした。
ですが、検便では血液が降りている事から、内臓疾患がある事だけは事実です。
6度の検査でも、原因が分からず、最終的にカメラで見てもらった結果、大腸に物凄い大きさの癌があることが判明。医師からは、逢いたい人が居たら今のうちに逢っておくように、勧められるほどでした。医師は切ってみないと分からないといって殆ど諦めていたようです。
熊自身、死も覚悟して、自分の戒名も決めました。しかし、心のどこかではまだ死なない不思議な自信はありました。段々衰えていく体力。食事も殆どお粥に成っていました。
何度も襲ってくる、激痛に耐えながら9月1日まで道場に立ち、稽古をしていました。
9月2日に激痛に耐えかねて緊急入院、9月4日に手術を受けました。大腸を40cm切除。
患部はグレープフルーツ大に成っていました。ところが、不思議が起きたのです。
医師も驚くものでした、医師は奇跡だとも言いました。見たところ何処にも転移している形跡が無い、そこでお腹の中にあるポリープ癌専に送り、精密検査をさせたところ、全て白。奇跡が起きたのです。
執刀した医師が言いました。30年以上手術をしてきて、こんな事は初めてだと、彼が言うには、熊は剣道をしていたので、精神力、気力が癌の転移を抑えていた。そうとしか考えられない。と言いました。そして彼は付け足してくれました。
手術前の彼方の態度は見事だったと。今までの患者の中でこれ程平然と手術を受けた患者は居ない。剣道を続けてきて良かったですね。彼方は剣道に命を救われたと。
ですが、熊の心の中では、窮地に追い込まれて読んだ本の中で学んだ、クンパハカの法
丹田呼吸による意識の改革。これが熊の命を救ってくれたと。信じています。
人間、胆力を鍛えれば、素晴らしい人生が見えてきます。
不動心と呼べる心境にはまだまだですが、其の入り口を学んだだけでも素晴らしい効果我あり、嬉しく楽しく毎日が溌剌と生きられます。
この呼吸法を学んだお陰で、剣道でもビクビクする事が減りました。ハッとする事も減りました。打たれる事が怖くなくなりました。出来たら皆さんにも、この本を読まれることをお勧めします。
宗教の本ではありません。どちらかと言えば哲学書だと思います。ですが非常に分かりやすいです。過去何人かの人々に勧めましたが、読まれた方々から非常に感謝されて居ます。
ありがたい事だと感謝しています。クンパハカについては以前何処かで書いた記憶がありますので養心館のサイトの中を検索してください。現在熊の剣道観のバックボーンが、小川忠太郎先生と、中村天風師の教えです。
参考までに、森島建男、原田源治、賀来俊彦、羽賀忠利、各範士の先生方も勉強されておられます。
4月 23 2007 | 熊のつぶやき | No Comments »
木曜日, 4月 19th, 2007
前回は、心構えについて書いたが、今回は気構えに付いて考えて見たい。
心構えと、気構えは違うのか。同じだと思う方が居るかもしれない。だが自分はこじつけ?かもしれないが違うと思う。
心構えはまだ自分の意志で如何にでも成る。強く持つ事も出来れば、捨てる事も出きる。人間が頭で観念的に考えている事だからだ。だから時にあやふやにもなる。
だが、気は=宇宙に充満している目には見えないが物を動かすエネルギーだと思う。
中国の文化の中で、気と言う、漢字の付く文字は、全て目には見えないが物事を動かす力がある。
電気、磁気、空気、蒸気、冷気、心気、天気、全て、目には見えないが、何かを動かす力がある物ばかりだ。
こうして見ると、気そのものは目には見えないが宇宙に存在する偉大な力で、ある事が容易に分かる。だから、気そのものエネルギーは、誰にでも変えられる物ではない。
有るとすれば、気の持ち方に個人差がある。気の強い人、気の弱い人。陰気な人、陽気な人。気持ちが良い。悪い。
つまり気と言うエネルギーを自分の体内に上手く蓄える事が出きる人と出来ない人とが居ると考えられる。つまり人間は気と言うエネルギーを貯蔵できるバッテリーだと考えれば、話が分かりやすい。
気の強い人は、当然バッテリー容量が大きい。気の弱い人は容量が少ない。
陽気な人は気のエネルギーの使い方が上手い人。陰気な人はそれが下手な人。
気が合う=気の周波数が似ている。気が合わない=周波数が違う。
と考えていけば何と無く分かるのでは無かろうか。
と成れば、如何に自分に其のエネルギーを上手く取り入れることが出きるか。
自分のバッテリーの容量を増やす事が出きるか。それは集中力を高める事で出きると考えている。
昔から言う。あの人は注意力散漫で気が散っている。つまり集中力を欠くと気が散漫に成る。だから逆に集中力が高まれば気も凝縮されて高いエネルギーを生むと言う事になりはしないか。
禅で言う所の一念不生、初一念に成りきる。これは全て集中力の極限を言った物である。自分の集中力を高める事が、気のエネルギーと同化できる早道なのだと。教えているのだと思う。
ただ、ここで問題が無いではない、集中力が高まれば高まるほど、人間の神経は敏感に成る。感覚が研ぎ澄まされてくるからだ。つまり反射神経の良い人は集中力も高い。
ボケ~としている人は間違っても集中力が高いとは言わないだろう。
と言う事は、神経が敏感であれば有る程、物事に感じやすい。反射神経に左右されやすい。敏感に成り過ぎると言う事は、絶えず、恐怖感の真っ只中に居ると言う事にも成る。そこで、其の自分が感じる感覚が、是か非か冷静に判断できる力が必要になる。
それが次回話をしたい腹構えに繋がる。
4月 19 2007 | 熊のつぶやき | No Comments »
日曜日, 4月 15th, 2007
に対処する、これは決して偶然ではない。必ず作為が働く、だが、その作為に縛られない事が、剣道の無心だと思う。
2007年4月6日(金)
逃げながら打つ。
山岡鉄舟が残した教えに「剣法邪正弁」と言うのがある。
それにはこのように書かれている。
「夫れ剣法正伝真の極意は別に法なし。敵の好む処に随ひて勝ちを得るにあり。
的の好む処とは何ぞや、両刃相対すれば必ず敵を打たんと思ふ念あらざるはなし。
故に我体を敵に任せ、敵の好む処に来るに随ひ勝つを真正の勝ちと云う。
譬へば箱の中にある品を出すに、先ずその蓋を去り、細かに其中を見て品を知るが如し、
是則ち自然の勝ちにして別に法なき所以なり」
是を解釈すると、「剣法に別段勝つ為の特別の方法がある訳ではない。
お互いに剣を交えれば必ず勝とうと打ちかかろうとしてくるから、その相手が打ちかかろうとする所に、
随って勝つだけだ。」という意味だと思う。
では相手に随って勝つとはどんな常態か。
相手が掛かろうとする出鼻、技の起こり。必ず隙が出切る。
相手が打ってきた後、応じるなり、刷り上げるなり、変化するなりして勝てる。
相手が打ちかかろうとするところは全て隙に繋がる、それを見極めて打てばよい。
と言う事に成るのだと思う。
4月 15 2007 | 剣道考察日記 | No Comments »
土曜日, 4月 14th, 2007
前回は、心構え、気構え、腹構えの概略について述べたので、今回は実践論、心構えとして気のついた事を述べてみたい。
前回、心構えは、あやふやな物だと書いた。確かに、自分の心ほど当てに成らない物は無い。だが、その心も、自分の意志で、強く持つ事ができると考えるのである。
剣道の精神的な構に、心構え、気構え、腹構と段階的に昇華して行けるものであれば、そのスタートラインが心構えである訳だから、そのスタートラインを一歩でも前進させて、高い処からスタートした方が良いに決まっている。
心は、自分で考える事であるから、その意志を強固にすればするほど磐石な基礎ができるということになる。逆に言えば、あやふやな心だからこそ、自分自身の思い次第で変える事が可能と言う事にも成るからだ。
先ず、自分の確りとした、信念を持つ事が大事だと思う。自分は何の為に剣道を遣るのか、その剣道を通じて何を学び、何を以って、人間社会の一員として役立って行けるのか、その信念を確り持つ事が非常に大事なのではと考えている。
志の低い処からは、低い山しか登れない。山の頂上を目指そうと思うなら、雲の上を目指してやっと頂上にたどり着けるのではなかろうか。「剣道は人間形成の道である」とするならば、先ずもって、最初の心構えを崇高な物にしておく必要があるのではと考えている。
先ず剣道を学ぶに、色々な方向性が有ると思う。我々市井の剣道家は、心栄えの良い、美しい剣道を目指そうではないか。
その為には、姿勢に気をつけなければ成らない、姿勢に気を配れば、当然着装が乱れていれば、良い姿勢など得られない。着装の乱れは心の乱れとさえ言われる。
美しい剣道を目指すなら先ず自分の姿勢と着装に気を配る事だと思う。
次に、人間としての嫌らしさからの脱却。打たれて感謝、謙虚さを学ぼうではないか。
打たれずに打ちたい。誰にでもある我だと思う。だが、それが前面に出る程、醜い事は無い。打たれる事は誰でも嫌いだ。正直、今の熊でも嫌いだ。だが打たれ るには必ず理由がある。打たれたことを謙虚に認め、何故打たれたか、その理由を探求する事で初めて上達と言う道が切り開らかれる。打たれて敵愾心だけ燃や している間、道は閉ざされたままだ。
打たれて、悔しければ、悔しいほど、謙虚に認めた方が道が広がる。そして、打たれても崩れない姿勢でありたい。身体は打たれても心まで打たれれば益々惨めではないか。
打たれる瞬間、姿勢が崩れると言う事は、完全に心まで打たれたという証だからだ。
美しい剣道を目指すなら、崩れない事だ。崩れた姿勢は当然醜い。それは醜い心が表れたからに過ぎないからだ。打たれたくない。その醜い心だ。
次に竹刀は刀の代用品だと言う事を忘れないで稽古しようではないか。
正しい握り方で正しい竹刀操作を心がけ、当てるのではなく、刃筋正しく打つ(切る)と言う観念を忘れない事だと思う。そうする事により、冴えた正しい技が学べて、剣道の神妙な所も学べるようになると思う。
最後に気力旺盛に元気良く、思い切りの良い稽古を心掛けようではないか。
打つ打たれるに頓着せず。思い切り良く打って出る。中途半端な打ちからは捨て身は学べない。気力の無い稽古からは強さは学べない。年齢差、体力差は有るかもしれないがその中でできる限りの気力を振り絞り、溌剌と稽古に取り組みたい物だと思う。
先ずこれらの事を自分の心に言い聞かせ、強い意思を持って取り組む事をお勧めしたい。この心構えで剣道に取り組む事から必ず進化があり、上達が望める物と確信する。
4月 14 2007 | 熊のつぶやき | No Comments »
金曜日, 4月 13th, 2007
前回まで、身構えについて、熊の未熟な考えを披露してきた。
しかし、この教えは決して荒唐無稽の物ではない、熊が今まで先生方から教わり、実戦してきて、身に着けてきた事柄です。参考に出切る人は参考にしてください。
さて、身構えの次は精神的な部分に入らなければ成りません。心構え、気構え、腹構え
これは熊とてまだまだ、未熟で研究途上である事を先に申し上げておきます。
先ず心構えですが、心構えは自分の考えの中で、「よし、遣ろう」と言う決意です。
処が人間の心程あやふやな物はありません。皆さんはどうか知りませんが、熊の場合意志が薄弱な物ですから、何度も何度も心変わりしますし、心裏腹と言う所です。
初心貫徹と言う有言葉もありますが、熊の場合、正月に年頭計画を立てて、3日後には忘れている。と言う事が沢山あります。心構えの段階は本当にあやふやな物です。
毎日一人稽古をする、と心に決めてでも、中々毎日続ける事が難しい。
ナンダ、カンダ、出来なかった理由をこじつけている自分を見たことがありませんか。
それが心構え、一時的な物だと解釈しています。
禅のお坊さんですら、「心こそ心迷わす心なり、心に心心許すな」と言う位ですから、心とはそれ程当てに成らない。それは自分の観念で考えているからです。
処が、段々稽古の回数が増えてきて、上手くなる楽しさが増えてくると、一々自分の心に言い聞かせなくても、色々工夫をして、益々上達を望み稽古に熱が入るようになって来ます。心で考えている訳ではありませんが、気持ちがそうさせて行くのです。
つまり、心構えの段階では、観念的に自分で考えていますが、気構えの段階では自分で何かを感じる段階、だと言う事が出切ると思います。
気とは大宇宙のエネルギーです。目には見ないけど偉大な物を動かす力がある。
空気=流れれば風。電気、蒸気、冷気、霊気、全て物を動かす力があります。
命の根源も其処にあるとまで言われています。
つまり気構えは宇宙の力を自分に取り入れて、溌剌と元気良く、楽しく出来て、自分でやろうとしなくても、自然に出切るように成る段階だと言う事が出来ます。
本能が司る段階と言えば良いでしょうか。其処には最早遣る遣らないの迷いがありません。ですから、無意識に、無心にできる段階もこの段階だと感じています。
処が、幾ら無心、無意識の状態でも、感じれば感じるほど、五感、六感が指令を出すので、その現象に反応してしまう。だから、咄嗟に打てる。つまり反射神経 そのものが気から発動されているからです。と言う事は、驚いた時ハッとするのも五感で感じるからなのだと言う事にも成る訳です。気の発動により驚くと言う 事に成ります。
それでは、本当の物の役には立ちません。もの有る毎にびくびくしていては、物事を成就させる事が難しい。そこで、その又一つ上を行くところを人為的に作り上げなければ成らない。それが腹構えです。腹構えは何もしないで身につくものではありません。
長呼気丹田呼吸、真理瞑想業により、自意識の改革をし、何物にも犯されない、不動の大全自若とした境地を作り上げなければ成らない。これが腹構えなのです。
これに向かっての修行が剣道通じての眼目なのでは無いでしょうか。木鶏しかり。
面白い話があります。
世界大戦で、敵艦に此方の砲弾が命中して、その艦船の撃沈の様子を見ていた海軍総帥が、自分の乗っていた戦艦に敵の砲弾が命中して、物凄い音がした。
その時、その総帥は、その音につられて、そちらの方を見た。その間に敵艦が沈んでしまった。その総帥は悔やんだそうです。自分はまだ腹構えが完全に出来ていないと。
又、ある人は、人助けの為に、相手が射撃してくる中を堂々と、歩いて行ったと言う話もあります。
昔の人は、そんな腹構えの出来た人物が沢山居た。我々も心したい物だと思います。
4月 13 2007 | 熊のつぶやき | No Comments »
金曜日, 4月 13th, 2007
いよいよ発表になった。本年度京都大会の組み合わせ。
今年は、鹿児島の先生だ。面識も無ければ、お名前も存じ上げない方なので、今からワクワクしている。
試合に余り肯定的でない熊自身が何故試合に、不審に思われる方が多いことと思う。
熊は、試合に出るのではなくて、立会いに出る積りでいる。
では、立会いと試合は如何違うのか。立会いは勝ち負けは関係ない。試合は勝ち負けがある。
通常、範士の先生方から、立会いと言う形を取る。観戦者は拝見と言う事になる。
熊の場合まだ教士なので事実上は審判が立ち、勝敗を決めて頂けるのであるが、熊自身、勝ち負けなど如何でも良い。
勝ち負けよりも大事な事がある。それは、京都大会は、全国から、高段の剣道家だけが集まりその気力、技、を通じ、一年の研鑽を発表する場所だと考えるからだ。
そのいわば、剣道の見識のある方々だけが集まるその場で、自分がどれだけの自分の力が発揮できるか、その点にだけ心を置いているからである。
内容が悪ければ、当然、大先生方から、貴重なアドバイスが頂ける。又、内容が例えよかったとしても、其処にはそれなりの学ぶべき点が出てくるからだ。
それが一番尊い。だから、事情が許す限り、毎年カナダから出かけていく。
それと試合に出ると言う事よりも、年に一度自分の武者修行なのだと言うこと、熊自身が上の先生方から直接ご指導を得られる貴重な時間を頂けるからである。
毎年、必ず数人の大範士にお稽古を頂く。そして、貴重なご指導を得る。これがなんとも有り難いのだ。それともう一つ、自分の、カナダでの修行が効をそうしているのか、居ないのか、確認も取れる。
先ず一年間、ナマクラをしていては通じる世界ではない。日本中の剣豪と言う剣豪が、集まる世界。お相手いただく先生方に事欠かない。
そんな訳で、一年に一度、自分の剣道の将来の方向性と、修行過程の確認、それらが目的で参加させて頂くことにしている。
だから、試合に出る出ないは関係なく、自分の剣道と心を、試す場、として、毎年お世話になっている。
それが熊の、毎年京都大会に参加させていただく目的だ。参加できる事に、感謝。感謝である。
4月 13 2007 | 剣道考察日記 | No Comments »
水曜日, 4月 11th, 2007
今日、熊の手元に剣道日本5月号が届きました。
その中に熊が尊敬する二人の先生の紀行文が載っていた。
一人は、佐藤博信範士であり、一人は森嶋建男範士である。
以前、熊のつぶやきやの中で世界大会の敗北を予言して、試合剣道の弊害について、書いた事があった。
日本が負けた悔しさからか、お前が手本を示せなどと、その記事を読まれ数人の方々から、異論を述べられてきたが、
ここに来て、やはり日本の大先生方も、今のママの剣道ではいかんと、同じように警鐘を鳴らしておられる。
やはり剣道は、当てっこではなく、地のある、腹と気の剣道を習得せねばならないと言う事を力説しておられる。
森島先生などは、「三年間試合を一切やめて、基本からやり直して、心の修行をしろ」とまで喝破されている。
それくらいの覚悟が無ければ日本の剣道界は良くならないとまで言われておられます。それを考えますと、
剣道修行は、自分の考え方で、その到達できる境地、天と地程差が出てくると考える訳です。
激しい、気を練る稽古が行われなくなった今、何故、親爺の実兄、羽賀準一先生の稽古振りが、貴重のものとされて再度取り上げられているのか、
やはり、市井の我々剣道かが一人一人心して、剣道の基本に立ち返らなければならない時に来ていると考える次第であります。
本来、カナダで素人剣道愛好家が、日本に向けてこのようなメッセージを発せざるを得ないこと事態日本側では猛反省をしなければ成らないのだと考えます。
何を、生意気な、と感ぜられるか、そうだ、その通りだと、感じられるかは、その方の資質でしょうが、
私の言っている事は、今、日本の大先生方が、口にしておられる事と同じなのです。
それを熊は大先生方より、少し先に口にしていただけに過ぎません。
偉そうに言うつもりは毛頭ありません。剣道を心から愛し、その無形の文化をできるだけ正しく世界に繋げたい、その一念で人生を掛けてきました。
人は熊の事をバカダと言います。子供も、親爺の真似は出来ない、と言います。勿論、熊自身とて、もう一度同じ人生を歩めと言われれば、はっきりNOと言います。
でも、今、自分の人生を振り返ってみても、後悔はしていません。逆に充実した人生だったと誇りにすら思っています。
この後どれだけ、剣道界に恩返しができるか解りません。ですが、生きている間自分が修行を続けていく事が、後進の何かの役に立つのだと信じて、未熟な修行を続けてまいる所存です。
それだけ自分にとり、剣道から学ばせていただいた事が大きい。感謝しても感謝しきれるものではありません。
4月 11 2007 | 剣道考察日記 | No Comments »
日曜日, 4月 8th, 2007
昔、悟りと言う化け物が居たそうだ。
その悟りが、きこりの心中を見透かして、に声をかけた。
「今お前はこう思っただろう。」
きこりは、一々悟りが煩いので、手に持った斧で撃ち殺そう考えた。
悟りは「今お前は俺を叩き殺そうと思っただろう」と又揶揄をした。
きこりは、如何する事も出来ないので、諦めて、一心に斧を振るった。
処が、どうした弾みか、その斧が手から滑って、悟りの頭に飛んで行き、悟りを殺してしまった。
これは無心について教えられた話だ。昔、熊はこの話を読んだ時、成る程な~~と感心していた。
処が、最近又読み直す機会があり、これは可笑しいぞと思うようになった。
それは何故か、先ず、手から斧が滑った。これは油断ではないか。
それと、手を離れて飛んで行った斧は偶然悟りを直撃しただけだと言う事。
これが本当の無心なんだろうかと言う事だ。
偶然は、無心とは違う、油断も無心とは違う。と思うに至ったからだ。
もう一つの話に、小太刀の名手、富田勢源の逸話だったと思うが、殿様の御前で技前を披露して賞賛を浴びて、その極意を問われた時、
「ただただ、さらさらと、面白く使いそうろう」と答えたと言う話がある。
さらさらと、面白く使う。其処には意志が働いているはずだ。何故なら、ただ単に道を歩いているだけなら、さらさらと使う必要もその動作もすることは必要ないからだ。
何かしら、その動作をさせる、必要とする、要素が必ずあると思うからだ。
それは、相手が居るということ。相手が居ると言う事はその相手に対する、何かしらの意志が働く。
意志の働かない偶然は無心とは違うと言う事だ。
昔、ある書物の英訳を目にした事が有った。
「無心」=エンプティーマインド、空の心。何も考えない心、と訳されていた。違うと思った。
エンプティーマインドで起きた事は偶然である。ビルの屋上から、鉄骨が落ちてきて下敷きになった。これは偶然である。
斧が手を滑って飛んだのも偶然である。其処には目的が無い。意志が無い。意志の働かない無心は偶然であり、本当の無心では無いという事ではないか。
さらさらと使うのには意志が必要だ。相手を打ち込むためには意志が必要だ。意志の無い無心は無心ではなく偶然だ。
そのことに気付いたら、悟りの話は、まやかしでは無いかと思うように成った。
偶然は=エンプティーマインド、からの心は、人間の作為が全く働かない。
剣道は相手が居る、打から何かしらの、作為が働く、だから、出鼻も打てば、返し技も出る。偶然からは技は出ない。
相手が居てそれに自然に対処する、これは決して偶然ではない。必ず作為が働く、だが、その作為に縛られない事が、剣道の無心だと思う。
4月 08 2007 | 剣道考察日記 | No Comments »
土曜日, 4月 7th, 2007
いよいよ、身構え愚考も大詰めに来ました。
今回は腕、竹刀の持ち方にまで言及してみたいと思います。
先ず、腕だが肩の力を抜かなければ成りません。
肩に力が入っていると腕の自由が利かないからです。
立った姿勢で、肩をグット持ち上げて、肩を耳の側にまで引き上げてください。
それを、ストンと下に落としてみてください。それが肩の力の抜けた状態です。
その、落とした、状態で肘から下を脇腹からスーと手を前に出すように、伸ばす感じで前に出し、手の平を合わせます。お参りをする時のように。
そして右手を一握りくらい前に出し、両手の指先だけ曲げます
其処へ竹刀の柄を、手の中に前から差し込むように、軽く、指先で竹刀を持つようにします。
その時の左手の親指の付け根がお臍の前で、お腹から一握り半くらいの位置に収めます。
右手は左手の握りから、一握り余、前の所で右手を竹刀に添えます。
大事なのは、竹刀は手の平、指に密着していますが、握り締めない事です。
左手はやや少し握る感覚が有った方が良いかもしれません。
どれくらいの力で、握るか、と言えば、誰かに竹刀の先をもって引っ張ってもらって、手が引っ張られたら、握り過ぎです。竹刀が手から抜けていくくらいが良いでしょう。
ですが、これだけは絶対に気をつけて下さい、手の中で竹刀が泳ぐようではいけません
必ず柄革が手の平、指に密着している。これが大事です。
開いていますと、瞬時の打突時に緩みすぎている分、握り締め無ければ打てませんので、瞬間的に握り閉める事になり、逆に硬くなります。
特に右手は気を付けないとその癖が諸に、技に響いてきますので要注意です。
打突時に右側から竹刀が出てくる人は殆どそれが原因です。
剣先の高さや付け所は、相手により異なります。
昔からの教えにも5通りの考えが記されています。
正眼・・相手の喉
晴眼・・相手の両目の間
青眼・・相手の左目
星眼・・相手の顔の中心
臍眼・・相手の臍
これらはその都度相手の出方により変化するものだと考えていた方が良いと思います。
本来ははこうした身構え(有構)を作り上げて、磐石の構として仕上げた後に、無構(構は心)の状態にまで進化すべきなのです。
ですが、無構と言ってでも、有構が確り出来て居なければ、無構の状態には発展できないと考えますので、先ずは確りとした、身構を作り上げるべきだと考えます。
4月 07 2007 | 熊のつぶやき | No Comments »
金曜日, 4月 6th, 2007
熊の場合、8つと言う立場から、殆どが元に立つ。
出稽古に他道場に行くと、前に並んでくれるのは良いのだが、皆当て逃げをしようとする。又殆どが逃げながら打とうとする。
剣道の原点は戦いである。何故真っ向から戦おうとしないのか不思議で成らない。
殆どが、打たれずに、打ちたいのが見え見えで、剣道にはならない。
仕方が無いので、此方も運動をする事にしている。
身体を動かして汗を掻けば良い。まあ、体重を減らす事くらいは役立つか。
剣道で、気で攻め合いができるように成るまでは相当時間が掛かる。それは分かるのだが、
最低でも逃げないで戦う事を遣らなければ、剣道にはならない。
当て逃げ合戦では、交通事故より訳が悪い。
剣道が強くなりたければ、絶対に逃げない事だ、下がらない事だ、前に出て戦う事だ。
間合いの駆け引きなんぞにウツツを抜かしていたら、上手さは身に着いても、強さは身に着かない。
人間修行として、剣道を身に着けるなら、器用さや、上手さではない、どんなに辛くとも逃げない事を身に着けなければ成らない。
どんなに辛くとも戦う姿勢を崩してはしてはいけない。人生なんて、問題ばかりだ、それから逃げないで真正面から向き合う事でしか解決が出来ない。
逃げる事からは何も解決はしないのだ。逃げない努力、真っ向から取り組む力が人間を強くするのだと確信する。
4月 06 2007 | 剣道考察日記 | No Comments »
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