Archive for 3月, 2007
土曜日, 3月 31st, 2007
身構え(中段)についての考察
身構えは、美しい自然体が望まれるが、剣道の攻防に中で、自由に自在に動け、機と見れば瞬時に攻撃に移れなければ意味が無い。その観点から、力の無駄使いを極力避け、合理的な態勢を維持していなければ成らないと考えている。
先ず足から考えてみたい。足幅は、少年指導要領の中では「約一握り」と書かれている。熊は足の外側が御尻の幅、腰の幅が一番バランスが取れて、蹴り足の力が床に一番上手く伝わると考えている。
是は以前、SKI指導員をしていた時に感じた事が発想の原点に成っている。昔、日本ではSKIは足を出来るだけ揃えて滑ることが良いとされていた。だがカナダでは、足幅をある程度開き、滑るように指導員試験で矯正されたからである。
その考えは、足の幅が狭ければ、モバイル、ヤジロベイ、逆三角形で安定感、バランスが悪くなると言う考え方から来ていた。つまり足の外側が腰の幅が同じであれば、体の体重が両足に均等にかかり、安定感を増す。と言うことだ。
(SKIではそのほかの理由もあるのだが、此処では関係が無いので省く。)
是は柱を考えてみれば簡単に理解できる、柱は真っ直ぐに立つ柱と、斜めに立つ柱、どちらが、強度が在るだろうか、真っ直ぐ立つ方が強度が在り安定感もある。
モバイル状態では逆三角形だから斜めの状態に成るということになり強度が落ちる。
打突時に左足で、床を蹴り、体を前進させる。その足の蹴り出す力を斜めの状態から蹴り出す方が強いか、真っ直ぐの方が強いか、賢者はお判りいただけると思う。
この説明はこの後の説明にも関係してくるので、念頭に入れておいていただきたい。
さて二番目に、足の内側が平行になって居なければ成らないと言う事。
よく見かける事だが、以外と左足が開いて、俗に云う撞木に成っている方々を多く見かける。特に高齢者に多い気がする。
だが、羽賀の親父も80を過ぎていたが両足は見事に平行を保たれていた。
「120秒心の戦い」の中で、持田範士の足も見事に平行を保たれて、非常に軽快な足捌きを披露されていたのは皆さん記憶があると思う。
羽賀の親父は80を過ぎていたが、160cm前後の身長で、192cmのアレックスを相手に、面に飛んで打っておられた。何故それが出来たか、親父は足が 平行だから、蹴る力が無駄に成らないと言っていた。それを検証すると、撞木は、足の親指の付け根近辺だけで蹴ることになる。
平行な足では、足指の付け根全体で蹴る事が出来る。足親指近辺だけの力で蹴る方が良いか、足の裏全体の力で蹴る方が良いか、足の指付け根全体で蹴れば、アキレスに伝わる力が全体でふくらはぎの筋肉全体が使えるつまり足全体の力が使えると言う事になりはしないか。
今まで稽古中、数人のアキレス切断を見てきたが、アヤコ以外、(彼女の場合コンクリートの床が原因だと考える)殆どが撞木足になっていた。丸めた新聞紙は引きちぎれないが、新聞紙の端から割けば簡単に割ける。
物事の道理は同じでは無いか。ぜひ足全体の筋肉を上手く使う為に足は平行を維持していただきたいと考える。
次に足の前後幅である、前足の踵のラインに後ろ足の爪先が来る、是が基本だが、
選手権の試合など見ると先ずその足幅で試合をしている選手は見かけない。何故か。
それは彼等はマダ、運動神経、反射神経で試合を進め、間合いの駆け引きに対応しているからに他ならない。
他の運動競技を見れば解る、バスケの足幅、バレーの足幅、皆広いはずだ、その方が瞬間的な動きに対処しやすいからだ。だから競技剣道では足幅が広く成って しまうのは仕方が無いことなのだが、だが、本来剣道では攻めて、間を詰めてそこで我慢をして、冷静に相手の動きを洞察して、討ち取る此処が高段者の高段者 たる一番違う所なのだ。
運動競技になれば20代でピークを迎え後は体力の衰えと共に退廃していく。
処が剣道はどうだ、若い選手が範士を打てない。それは何故、胆力、技、読みなどが経験上優れているから、できることである。
その為には足幅を広く間合いに出たり入ったりしていは、本当の機会が捉えられないということに成る。だから、高段者に成ればなるほど、前後の足幅が狭くなり、それゆえに、溜めが出てくるし、静から動への動き転換も容易に出来るようになる訳だと思う。
前後足幅が広いと言う事は、つまり運動能力だけの剣道、つまりスポーツの段階。
前後足幅が、整ってきて始めて、武道としての剣道が磨かれるのではないのだろうか。
そのように考えている。基本通りの前後の足幅、早く身に付けたほうが勝ちだと思う。
次は身構えで体、姿勢などに付いて触れたい。
3月 31 2007 | 熊のつぶやき | No Comments »
木曜日, 3月 29th, 2007
最近,此処で機=気について、昔の教えを紹介していた。
原文のまま載せて、考察は各個人にお任せした方が良いと考えたからだ。
受け売りでは身に付かない、自分で考えて感じた方が良いに決まっている。と考えた。
別に意図があったわけではないが、偶然自分の稽古に照らし合わせて、考える事が多かった。
最近の稽古でこの気を考えながら取り組んでみている。
そこで気づいた事がある、昔の道歌に「気で攻めて足で運んで打てば上々」と言うのがあり、その通りだと考えて、打突を試みていた。
だが、其処には大きな落とし穴が潜んでいた。今までそれに気付かないで居たのだが、
在る、画像からヒントを得て、まねて見た。勿論着け焼刃が簡単に身に付くわけも無いが、段々回を重ねるごとに手応えと、実感としての攻めから、打突が生かせるように成り出した。
それは如何言う事かと言えば、今まで、触刃から、交刃まで攻めて、攻め 切った積りで打突に出ていた積りで居たが、打突体制に入った瞬間、攻めが消えているのではないかと言う 疑問が沸いたからである。
確かに、その攻めが通じた場合には何となく打てていた。しかしそれはあくまで偶然でしかない。相手が弱いから通じただけで、在る程度確り出来た相手には通じない。
今まで通じたと思っていたのは単なる偶然の重なりで打てていただけではないのかな、と言う疑問が沸いたからだ。
だが最近、此処に来て、稽古中ある事に気を配りながら稽古をしてきた て、是でほぼ間違いがないと言う、確信に近い手ごたえを感じてきたからだ。
これを、道場の館員に教えたが、恐らく理解は出来ないであろう、 熊が約50年掛けて今、感じ身に着きだしたことがそう簡単に皆に解るはずが無いからだ。
だが、勘のいい人はわかるかも知れないので、一応ご披露しておく。
攻め、是を一輪車に乗せた土と考えてもらいたい。
その載せた土が完全に相手の所まで運ばれているか、その土を相手に頭からかぶせる事が出来るか如何かと言う事だ。
殆どの場合、交刃の間まで攻めて、機会が来たら、打突に出る、その瞬間皆はその土をそこでダンプして、空の一輪車で打突に転じている のではなかろうか。
この違いが解るだろうか、相手から、技を返されたり応じられたり、出鼻を捕らえられるのは全て、空の一輪車に成った証拠ではないか。
と思うに居たり、今その土をいかに相手に届け、頭からそれをかぶせる事が出来るか、それに心を砕いている。 それが何と無く、出来るようになってきた。
それは何故確信できたか。最近の稽古で熊自身一段強くなったと感じ取れるからである。
打たれ無くなって来ただけでなく、黒、白両熊に可也の確率で中心を割る面が炸裂し始めたからだ。
あくまで感覚の話なので、これ以上の説明は難しいのだが、腹の収まり、左手の納まり、丹田の力、 是を最後まで緩めないで打突をする。それが大きな鍵になった。
3月 29 2007 | 剣道考察日記 | No Comments »
水曜日, 3月 28th, 2007
万物を生成する根源である処の勢気である所の気と、事の起こる切欠と成る、キザシである所の機が合せて適時行われるものが、真の気合である。
時期を得ないで出す元気は、から元気というので、大丈夫の恥とするものである。
血気の勇などは匹夫の者で達人の恥ずる所である。
猛禽荒鷲はその節を博つと云うが、この事は剣道に応用し得る貴重な事実である。
鷲は心得てやっているのではなく、天理に任せて体験で遣っているので有るが、自然に相手に逃げ腰を作らせて、乗ずる機会を掴むのである。
襲うべき時期を作って攻撃をしたことになるのである。
3月 28 2007 | 剣道考察日記 | No Comments »
月曜日, 3月 26th, 2007
構、剣道に於ける構は、剣道修行上の大切な大きな要素の一つだと思う。
単に、構と言ってでも、色々の見地から検討する事が必要であると思うのだが。
例えば、剣道において考えれば、
1身構え 2心構え 3気構え 4腹構え、さっと思い付く言葉だけでも4つも出て来る。
1身構え=肉体的戦闘準備
2心構え=自己行動の意思決定。
3気構え=意志決定後の貫徹。
4腹構え=不動心。
形で作れるすなわち身体で表現する「身構え」と、
形に見えない精神状態のあり方、すなわち自分の意志を表現する「心構え」、信念を表す「気構え」、何があっても動じない「腹構え」があると考えられます。
身構えは、足の踏まえ方、姿勢、竹刀の持ち方、左手の位置、剣先の付け方などをしっかりと念頭に置き、形から作り上げていきます。
心構えは、ヤルゾという自分の意思決定。自分の心に自分で言い聞かせる。
気構えは、意思の段階を超越し、自己の信念にまで高まり、強い貫徹の心になる。
腹構えは、修行が極まると、何時いかなる場合でも動ずることなく、泰然自若(たいぜんじじゃく)とした行動,対処ができるようになる。
こんな風に考えられると思う。
だが、単に身構えと言っても、各自それぞれの考え方で、工夫の段階があり、色々である、三角矩の構とて、それぞれの肉体構造で違ってくるはずだ。
ましてや相手との攻防で絶対と言う事が無い世界、千変万化の事態に対応できる身構えなど形の上であろう筈が無い。
しかし、その中でも、出来る限り無理なく無駄なく自由闊達でありながら隙の無い構えを探さなくては成らない、是が又面白い。何故ならその形から成る構は心と連動しているからである。だが其処まで話を進めてしまうと何が何だか分からなくなるので、
今回は一つ一つの要素に分けて、構を検証してみたいと思う。続く。
3月 26 2007 | 熊のつぶやき | No Comments »
土曜日, 3月 24th, 2007
前回まで、5回に渡り、面打ちで心掛けている事を書いた、書けばまだ有るのだが、それは殆ど枝葉末節、大まかに見て5回で書いたような事を心して稽古をしている。
さて、最近の稽古、自分で言うのもなんだが、大変面白くなってきた。
何時でも面白いのだが、ことさらに面白さが倍増しているのだ。
それはある画像を見たことが切欠に成った。羽賀の親爺が、老齢になり稽古を見て頂けなくなって、数年が立つ。その間は手探りで、今まで習ってきた事の確認を取りながら、稽古をしてきた風がある。
人間、本当に弱いものであるが、そうなれば相手が自分なだけにツイツイ心のどこかに妥協や油断が生じてくる。初心貫徹とは言うが、難しいものだ。つい目的を見失う。
だが今回偶然見た画像は、熊の心に火をつけ、これからの学ぶべき道の灯明を明らかにしてくれた。この画像の教える所、熊が求める剣道の究極の姿といって良かった。
以前120秒心の戦いの中で、持田範士の立会いを見た、素晴らしいとは思ったが、自分に出切る範疇を超えていた、それ以前に、昔の古い戦前の画像を何度も見て研究もした。どうも其の時点では凄いと驚きもし、感動もしたが、遣れるとも、遣ろうとも思わなかった。
多分自分が求めている、理想像と、何かが僅かに違っていたのだと思う。
勿論、其の古い画像を見た時点と、今の熊の心境には、それなりの違いがある。
そこで再度古い画像も見て検討をした、答えはやはり同じであった。
そこで、学ぶ事は真似る事から入る。普段お稽古で、真似られる所を真似てみた。勿論、当然付け焼刃である。上手く行かなくて当然だ。だが、それらしき手ごたえは感じた。
何処までこの想いが続けられるかは、意志の弱い熊自身にも分からないが、当面の間、この面白さ倍増計画の中で磨ける自分を磨いてみたい。
剣道は本当に楽しい。こんなにも次から次やりたい事が出てくる。
永遠に食べきれないご馳走を前にしたようなもんだ。
3月 24 2007 | 熊のつぶやき | No Comments »
土曜日, 3月 24th, 2007
機は大事のものなり、気を機と云う。この機は心善悪二道無きなり。
戸より外え出れば二道となる。
この機を能く見付くべし、鈍成るものには、この機見えざるなり 。
犬はよく人の機を知るものなり。
犬を恐るる機あらば、犬必ず嚇す。恐れざるざる人を知らぬ振りして通すなり。
又、打つか追うかする機在れば立ち退くなり。
人として、この機を知らざる者愚の至りなり。
又、万事に通ずる人の機は少しも知れぬものなり、是を名人の位という。
剣術に於いても達人の機は更に知れざるが故に、知らず知らずして十分に負くるなり、
考うべし。
3月 24 2007 | 剣道考察日記 | No Comments »
金曜日, 3月 23rd, 2007
第五に心掛けている事は気、剣、体、別々の働きである。本当の気剣体の一致の為にそうせざるを得ないのだ。剣道バラバラ事件なのだ。笑
普通一般の剣道家は手と足が連動して働く。だが実は是がどれだけ剣道上達の邪魔をしているか、是が余り理解されていない事だと思う。だから、殆どの剣道家は其処の所を超えられないで居る。
剣道は、気、剣、体の一致と言われるが、実の所、気も、剣も、体もバラバラに働きを自由に出来なければ、本当の気、剣、体の一致など、作れる筈が無い。
千変万化、臨機応変に何のこだわりも無く、体が自然に動き、打突をすると言うことは、肉体と精神と竹刀の動きが自由でバラバラに働いて初めて効を成すと考える。
間合いの作り方は足である、上半身は打つ為に、防ぐ為に、交わす為に準備万端で無ければ成らない、そのためには、何処の筋肉に余分な力が入っていたのでは、それは不可能に成る。つまり、体=足、剣=上半身(腕肩手首)が別々な訳がお分かり頂けると思う。
だから、臨機応変に対処で来る用意の為に、出きる限り何処にも動きを作らない。
つまり上半身の何処の筋肉も最終目的の打つと言う行為の為に、絶えずリラックス、自然体のまま維持してい無ければ成らないと言う事に成る。
だが、間を作り、機会に間違いの無い打突をするのは、足がカギに成る。
上半身の静と動、下半身の静と動、是が別々に成っていなければ成らないわけだ。
勿論、気にしてからが、刻々変わる状況変化に、気持ち付いていきながらそれに惑わされること無く、自分を確保しておかなければ成らない、決して心の硬直は避けなければならないはずだ、と言うことは全てバラバラの働きをすることが、求められていると言う事になる。
処が、剣道では最終的に、気、剣、体、の一致動作が求められる。それを纏めるのが、自己の意思で司ることになる。ここだ、今だ、遣るぞ、其の意志がバラバラを一つに纏めるのだ。
其の意思決定が、正確な間積りをして、足で打ち間に入り、相手の気を起こして、最終的に上半身の腕が動きをして、正確な打突に繋がる。
このバラバラが理解できて、身体、心で表現できる位に成ると、剣道では一応の世界を治めたことに成るのだと考えている。
特に打突に入る前の間積り足の動き、気で責め切ってからの、上半身の竹刀打突動作、ここが上手く行くと見事な面が出せる。
剣道バラバラ事件、身に付くとこれほど面白いことは無い。
3月 23 2007 | 熊のつぶやき | No Comments »
木曜日, 3月 22nd, 2007
第四に心掛けているのは、技術面での話しになる。
簡単に言えば中心を割ると言う事、其の中で熊が考える中心とは、中心の一点だということではない、相手の中心線と考えた方が良い、相手の目鼻口喉~臍に掛けての線である。
熊が良く生徒に説く話で、舟の舳先に例えて言う事がある。舟の舳先は水を分けて前に進む、あの舳先の角度が左右対称でなければ舟の進行方向が真っ直ぐに進まないはずだ。
だから其の舳先が水を分けて進むのと同じに自分の打突も相手の中心線を割っていく。
お互いの中心線は唯一つであるから、其処を完全に割っていけば相手の舳先は方向を変えざるを得ない、つまり相手は真っ直ぐに打てないことに成る。
だから徹底的に、中心を割って面に出る事を心掛けている。
ただここで、一つ考えておかなければ成らないことがある。相手の中心と言えども時と場合により、自分の打突の角度が変わると言う事、話は矛盾して聞こえる かもしれないが、攻めの攻防の中で、一瞬を捉えて打突する訳だから、時には裏から、表から上から下から、出る事がある。それもまた真なりである。だからこ のように考えてみていただくと解りやすいかと思う。
円を書いていただいて、其の中心点にお相手が居る、其処を自分は中心点を通り180度を結ぶ線を打突きして行くと考えてもらえば良いのではなかろうか・・・・
円は360度、何処からでも打ち込める、ただ其の打ち込みはどの角度からであろうとも、円の中心に立つ相手の中心線を通る、180度の方向へ一直線に出て行くということと考えて頂ければ良い。
中々難しい事ではあるが、それを心して遣るのと遣らないのとでは、雲泥の差が生まれてくる事は必定だ。
昔、こんな笑い話が合った。日本から団体で見えた剣道のグループがあった。其の会食の席で、日本側から来られた剣客の方々が、ゴルフと剣道の話に、花が咲 いた。其の中で彼ら曰く、「剣道は人の頭を叩くからまだ簡単だ、ゴルフボールは小さいから打つのは大変だ」と言われたとの事。
それを20才そこそこの白熊が聞いていて、思ったそうである。
この方々は剣道を解っていない。自分は其の大きな人間の頭の中心1mmを狙って稽古をしている。刀の刃は1mmも無いよ。確かに、頭も大きい、竹刀も太い、だけど狙うのは頭の中心1mmだよ、ゴルフよりは高度だと思うけどな。と言うのが彼の意見だった。
中心を取る、其処は1mmの世界の追求だと思っていただければ良い。
3月 22 2007 | 熊のつぶやき | No Comments »
火曜日, 3月 20th, 2007
昔、榊原正範士に聞いた事が在る。
「剣道八段になると、それぞれの個性が剣道に出てくる、それがその人の剣風に成る」と
熊自信はマダ、自分がどんな剣風を目指して居るか掴めないで居る。
昔の理想から言えば、榊原正範士の正確無比な技前、端正な構え、羽賀忠利範士の流れるような足裁き、切れるかと思うほどの手の内のさえ、上品な剣風、西善延範士の、怒涛のような強さの剣道。
これを足して、MIXしたものに憧れていたのだが、そんな剣風は真似が出来ない。そんなことが最近ようやく解った。何故か、中身が無いからである。中身が違う。
だが、最近、自分で、こうだ、こうなりたい、ということが、段々はっきりしてきた。上辺だけ、大範士の真似をした所で、所詮それは付け焼刃、その真似事が、自分の本当の実力になるとは到底考えられないからだ。
そこで先ず自分が最初に何を身に着けなければ成らないか、それは強さだということに気付いた。これが一番大事だと気付いた。
その強さの中からにじみ出てくる風格。
これが無くては、風格なぞ作り物、飾り物でしか無いと言うことに、 思いが及んだ。何ぼ美しい姿だろうと、強さが無ければ、アイツは格好だけだと言われてしまう。
人の評価が、如何で在れ、構わないのだが、やはり目指せるなら、強くて美しい 剣道が理想ではないか。
だが、強くて美しい剣風の中にも色々在る。流れるような、流麗な 剣風も在れば、巌の身のような力強い剣道も在る。そのどちらに行こうか考えたが、熊の性格としては、どちらかと言えば、巌の身を目指したい。
どんな怒涛の荒波でも、ドンと跳ね返す岩礁。そんな強さが身に付けば、’自然と、自分の剣風が定まってくると、思うようになった。
器用さで、真似る剣風でなく、自分の体内、心から発動する魂の叫び、それが剣道で表現できた時に初めて、熊が熊としての剣風が出来上がるのかも知れない。
それを目指して日々是精進。楽しみな事だ。
3月 20 2007 | 剣道考察日記 | No Comments »
日曜日, 3月 18th, 2007
面打ちで心掛けていること、第3話。
意志です、絶対に良い面を打つと言う事を稽古毎、相手毎、心に言い聞かせています。
先ず、最初の黙想の時に、自己暗示と言うか、メンタルトレーニングというか、自分が最近出した、最高と思われる面打ちの感触を思い出して、脳裏に焼きつけ再生しておきます。
若し最近、そんな面が出ていない場合は、憧れの先生の面打ちでも良い。脳裏の画像に映し出しておくのです。そうする事により、人間は反復する事で身体に習慣性が付きますので、脳細胞が記憶の中から其の部分だけを体の隅々まで命令伝達を行いやすくなるわけです。
それと稽古前自分に、よし、小手を打たれようが、胴を抜かれようが、面返し面をもらおうが、構うものか、自分は自分の最高の面を打つのだ、と心に言い聞かせておく事により、集中力も高まります。
つまり面を打つと言う事に掛けているわけですから、他の所には心が行かなくなる。
打たれることへの恐怖感や、迷いが無くなれば、其の分集中できると言うわけです。
この意志を強く、確りと自分の心に言い聞かせて稽古に取り組むのと、そうでない場合の充実度が全然違ってきます。ただ漠然と叩き合いするのでなく、何のための剣道なのか、目的を確りと把握して、自己の意思を確立して取り組む事で進歩が早くなる。
ですから、自分は、稽古ごと、お相手毎に、良い面が出せる最高の環境を作る努力をしていく訳ですから、自己意思を強めて取り組む事で、素晴らしい面打ちにつながると考えています。
3月 18 2007 | 熊のつぶやき | No Comments »
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